新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

人はパンで生きるのか。-旧約聖書と新約聖書

今日も真夏日です。昨日は長女と次女それに孫が来て大変だったのでブログはお休みしました。今日は日曜日なので教会でした。

 今日は司式(礼拝の司会)と教会学校の説教がありました。日曜日なので恒例の教会ネタです。今日は聖書について書きます。

 おじさんの今日の教会学校の説教は旧約聖書出エジプト記がテーマでした。「マナ」の話です。「マナー」ではありません。「マナ」という言葉を聞いただけで意味が分かる人は相当聖書に詳しい人です。教会に行っている人でも余り期間がない人は知らないかもしれません。

 ところで出エジプト記とは、モーセイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し神様が約束した土地へ放浪する話です。モーセイスラエルの指導者ですが、実は彼は犯罪者なのです。昔風の言い方をすればお尋ね者なのです。

 彼の罪名は何と殺人罪です。かれはイスラエルの民を迫害していたエジプトの役人を殺してしまうのです。かれはそこを逃れて新しい生き方をします。そして神様の召命にあってイスラエルの指導者になります。

 エジプトを脱出して一番有名な奇跡が紅海の水が二つに割れた話です。昔「十戒」という映画があって、シニアの方でご覧になった方もあると思います。あの場面はドラマチックな奇跡ですが、マナの奇跡はそれほどでもありません。

 マナの奇跡は紅海の奇跡の後にでてきます。紅海をわたって荒野に入ったイスラエルの民はまず水に苦しみます。水はあったのですが、そこの水は苦くて飲めませんでした。それで民が不満を言うとモーセは神の命令で木を一本投げ入れます。すると水は甘くなります。

 その次がこのマナの話です。人間にとってまず水が一番大切です。これがなければ生きていけません。しかし水だけでは不十分です。肝心の食べ物がなければどうにもなりません。イスラエルの民も当然最初は食料を持っていたでしょう。しかし、次第に食料が不足してきます。

 まして荒野には何も食べるものはありません。そこで民は不満を述べると神はマナという食べ物を与えるのです。おもしろいのはこの食べ物は朝起きると地面にあって、朝の間しかありません。

 昼になると消えてしまうのです。また必要以上とってもそれは腐ってしまいます。なぜか安息日の前だけは2日分保存できるのです。現代の聖書学者はこのマナについては特定の植物の名前を上げています。

 聖書の言葉によれば主はモーセに「見よ私はあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って毎日必要な分だけ集める。」と言われるのです。マナは炭水化物のようなのでたんぱく質はどうなっているのでしょうか。

 こちらは「「うずら」が飛んできて食料になるのです。新約聖書では「人はパンだけで生きるのものではない。」というマタイ福音書の言葉だけが有名です。これだけ見るとパンより大事なものがあるとキリスト教は考えているように思われます。

 この言葉も実はすぐ後に「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とあるのです。必要な時はまさに空からパンが降ってくるのです。

 キリスト教の信仰は必要なものは精神的な援助でも物質的な援助でも神様が与えてくださるというものです。日本でも神社に行って商売繁盛を願いますがそれとはちょっと違います。商売繁盛を願いますが、お願いしている神様がどんな方で、その神様が自分とどのようにかかわっているのか無関心な人も多いです。

 キリスト教の神様は私を信じるならば私もあなたを守ってやろうというものです。難しく言えば神様の契約を結ぶということになります。契約を結べば契約を守る義務ができます。契約を破れば神様の方も違反者に罰を与えます。
 
 それが旧約の神様です。新約聖書の世界は少し違います。ここでは煩雑になるのでとりあえず書かないことにします。今日言いたかったのは、キリスト教精神主義だけではないのです。物質的な面でも困らないように神様が面倒をみてくれるということです。ちょっと大胆すぎる意見ですが、これはおじさんの独断と偏見に満ちたブログなのでその点はご了承ください。

 正統な神学理解ではないと思います。明日はのんびり過ごします。今度の日曜日はおじさんの礼拝説教です。