新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ドラマとしての聖書ーイエス逮捕の前後

今日はやっと雨が上がりました。と言っても午前中は雨でしたが午後から曇り空になりました。消費税をめぐってはおじさんのブログにもいろいろ意見が書き込まれていました。関心が皆さん高いようです。

 おじさんの意見としては消費税反対派の方には残念ながらすでに消費税値上げで安倍政権は心を決めていると思います。安倍さんは別かもしれませんが、官房長官の管さんや麻生さん甘利さん辺りは議論するだけばかばかしいと思っているはずです。

 まあ麻生さん辺りは安倍さんが消費税値上げをやめたら、それをきっかけに安倍政権を飛び出し財務省の後押しで次期総理を狙うかもしれません。まあ安倍さんのような優柔不断な人も少ないでしょう。海外からはなぜあんなに慎重なのか、あれで一国を引っ張っていく首相なのかと思われているでしょう。

 さてそんな生臭い話はやめにして日曜日なのでいつもの教会ネタを書きます。今日の説教はヨハネ福音書のクライマックスであるイエスの逮捕と裁判・処刑へと続く場面です。聖書個所で言えばヨハネ福音書18章から始まります。興味のある方はドラマとして読んでみてください。

 イエスの逮捕から処刑へと続く場面はヨハネ福音書だけでなく、他の福音書にも同じ記事があります。しかし、描写のすばらしさはヨハネ福音書が一番です。話は変わりますが40歳頃から絵画に興味を持ちました。以前は西洋絵画中心でしたが、今は日本画にも興味があります。

 最近もラツールの絵を見ました。美の巨人たちという番組です。ラツールの特徴は光それもろうそくの光と影で絵画を描くのです。ヨハネ福音書のイエス逮捕の場面も光と影が極めて効果的に使われています。ちなみに西洋絵画を見るとき聖書知識とギリシャ神話に関する知識がなければ絵画の意味の半分しか理解できないと思います。

 今日の箇所は、まずイエス逮捕の直前、「一隊の兵士ち祭司長やファリサイ派の遣わしたした下役」が「たいまつやともしびや武器を手に」してやってきたところから始まります。先頭は裏切り者のユダです。何十年もこの記述を何となく読んでいました。しかし、今回はちょっと別の視点から見てみました。イエスとその弟子がいたゲッセマネの園は当然真っ暗な闇の中にあったと思います。

 その闇の中から人々の声と明かりに塊がイエスの側にやってくるのです。映画の一場面のようです。イエスに近付いてきますが、イエスの方から進んで「誰を探しているのか」と声をかけます。「ナザレのイエスだ。」と兵士が答えると「わたしである。」と答えるのです。

 そう答えた時「彼らは後ずさりして地に倒れた」とあります。イエスの気迫に兵士たちは圧倒されたのでしょう。そのあと意外なことに一番弟子であるペテロが剣で兵士を切りつけその耳を切り落とします。キリスト教と言うと無抵抗主義のように思っている人がありますがそんなことはないのです。

 マタイ福音書ではこの後イエスが「剣を取るものは剣によって滅びる」という言葉が続きます。これはマタイ福音書にしかありません。ちょっとできすぎたセリフのような気もします。

 次にドラマチックなののはイエスが逮捕されたあと大祭司のもとに連行されます。他の弟子は皆逃げ出したのにペテロはついて行きます。そして大祭司の邸宅の庭で炭火にあたっています。ほのかな炭火の光でペテロの顔を浮かび上がったと思います。

 ここでのペテロの心の闇とほの明るい炭火の光のコントラストがとてもきいています。ペテロの心の闇とはイエスを3度まで否定したことです。あなたはイエスの仲間ではないかと邸宅の人から言われた時ペテロは「違う」と言うのです。

 ペテロとはカソリックの初代教皇になった人です。ではなぜイエスを知らない、私とは関係ないと言ったひとが教皇になったのでしょうか。それはまた別の時に書きます。

 人間の心の闇と光の世界が今日の聖書個所にはでています。聖書を最初から終わりまで読むのはむりですが、ヨハネ福音書18章以下を人間の裏切りと救いのドラマとして読むのをお勧めします。

 聖なる書物ではなく人間ドラマとして読むこともできます。明日は孫が来るので相手をしなければなりません。