新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ローマ総督ピラトー真理を求める知識人として

今日は午前中は雨でしたが午後からは晴れてきました。昨日同様さわやかな暑さです。すっかり秋と言った状況です。

 オリンピックは東京で決まりました。一時マドリッドが優勢との報道もあったのですが、ふたを開けてみればイスタンブールが健闘し、そのあおりでマドリッドの票が大幅減少しました。初回の投票でマドリッドが健闘していたら、イスタンブールの票も入ったと思われるのですが。

 東京から遠くに住むおじさんにとっては良かったですね程度の感想です。それよりもオリンピック招致が株価に与える影響や消費税との関連の方が気になります。大手建設株も持っていますので目標値を超えたら取りあえず売却を考えています。

 オリンピック開催は6年後のようですし、それまで建設株の高値が続くはずもないので、取りあえず話題になっているうちに売却しようと思っています。

 オリンピック招致の経済的政治的影響については後日ブログで取り上げます。さて今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今説教ではイエスキリストの逮捕と裁判へと進んでいます。福音書の記述は微妙に異なりますが、おじさんが一番好きなのはヨハネ福音書です。

 文学的記述があり同時に極めてドラマチックなまるで芝居の脚本を読んでいるような内容です。今日は聖書でも有名なピラトの尋問の場面です。

 ピラト、正式にはポンテオピラトと言います。イエスキリストを逮捕したユダヤ人たちは自分たちで人気の高かったイエスキリストを処刑するのを嫌い、当時の支配者であったローマ人にその責任を押し付けようとします。

 詳しくはヨハネ福音書18章28節以下をご覧ください。このブログの読者の方の中で聖書をお持ちでない方がぜひお持ちになるのをお勧めします。ヨーロッパ文明を理解するためには、聖書とギリシャ神話の本が必須です。

 ところで、ヨハネ福音書ではユダヤ人たちがイエスをローマ人に引き渡したのは、ユダヤ人には人を死刑にする権限がないからだと書いています。ユダヤ人たちは律法に背いた人間(姦淫の罪を犯した場合など)を石打の刑にすることはありました。

 しかし、これは一種の私刑(リンチ)で正式な処刑ではないのです。ユダヤ人たちは人気のあるイエスを私刑ではなく正式な裁判にかけて葬り去ろうと考えたのです。その場合適用されるのが「国家反逆の罪」です。イエスが自分は「ユダヤの王」であると主張していると言うのです。

 勝手に王を名乗るのはローマに対する反逆ということになります。ピラトは優秀な官僚だったと思います。彼自身は騎士階級の出身で、それほど高い身分ではありませんでした。しかし、当時優秀な能力があれば、植民地(属州)の総督になれたのです。

 事実彼はユダヤという厳格な宗教を持ち、統治の難しい民族を相手に最大の配慮をします。たとえば、ユダヤ人はローマ人という異邦人との付き合いを嫌います。特にユダヤ人にとって大事な過ぎ越しの祭りの最中だったので、ユダヤ人たちはピラトの総督官邸に入らないのです。(異邦人と付き合うと汚れるという考えからです。)

 そしてイエスだけを総督側に引き渡すのです。ピラトはユダヤ人の態度に腹を立てたと思いますが、きちんと配慮します。彼は何と官邸でイエスを尋問し、その結果を自ら官邸の入り口まで出向いてユダヤ人に報告するのです。

 それを何回か繰り返します。ローマ帝国の総督がユダヤ人とイエスとの間を行ったり来たりするのです。まるで子供の使いのようです。もちろんピラトは命令を下してユダヤ人の祭司たちを呼びつけることもできたのですが、そうはしませんでした。

 イエスに対しても高圧的な態度にはでません。極めて冷静に対処するのです。ユダヤ人の祭司たちが糾弾しているのは事実かと問います。「いったい何をしたのか」というピラトの言葉がそれをよく表しています。

 そして自分のことを王と自称していることにも質問が及びます。イエスは、自分が王であると自称したとされるなら、それはこの世の国の王ではないと言うのです。自分は神の国の王とでも言える存在であると言います。イエスの答えで象徴的なのは「もし私がこの世に属しているなら、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。」と言います。

 イエスの人気は当時大変なものでした。一番弟子のパウロでさえ剣を持っているのです。もしイエスが本気で逮捕から逃れようとするなら、自分を支持する勢力に武装ほう起を呼びかけることもできたでしょう。そのことはピラトも十分理解できたはずです。

 知識人ピラトの本領は次の質問で明らかになります。ピラトはイエスに「それでは、やはり王か」と質問するとイエスは「私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と答えます。

 ここでは真理という言葉が飛び交います。イエスはそれに続いて「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言います。ピラトはイエスの言う「真理」という言葉に引かれます。ローマの総督をするほどの人間ですから若いころきっとローマで学問をおさめたと思います。

 彼が学んだのはギリシャ哲学やローマ法であったかと思います。そこでも当然「真理」とは何かが問題になったと思います。そして彼は彼なりに「真理」について学んでいたと思います。

 そこでピラトは「真理とは何か」と聞きます。もちろんピラトが言いたかったのは「お前の言う真理とはどのようなものか」と言うことでしょう。この質問にはイエスは答えません。ただその後のピラトの行動からはイエスの言葉に納得したことが分かります。

 ところでなぜイエスは答えなかったのかについてです。イエスはすでに答えていると考えたからでしょう。おじさんなりの考えで言えば、イエスのいう真理とは自分を信じることだということでしょう。

 今日の説教はここまででした。次回はイエスのことを理解したピラトがなぜイエスを十字架につけたのかということです。これについては常識人あるいは政治家としてのピラトの限界について次週の日曜日に書きます。

 明日は所用で忙しいです。ブログをお休みするかもしれません。