新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

復活に直面した人々ー弟子たちとトマス

昨日の夜から雨でした。今日は一日ぐずついた天気です。今日本屋さんに行ったのですが、おもしろい記事を見ました。日本では安倍さんが大見えを切ったせいか汚染水問題は下火ですが、ニューズウイーク日本語版では大々的に日本の汚染水問題を取り上げていました。

 単行本でもおもしろい傾向が見られます。去年の今頃本屋さんの棚を賑した維新の会と橋下さんの本が全くみられません。中国崩壊論も減りました。アベノミックスを歓迎する本も減りました。逆にアメリカの復活を予想する本が増えていました。

 マスコミ特に出版業界は社会の雰囲気を敏感に感じとっているようです。バブルの頃不動産投資を大声で推薦した長谷川某氏がその後の反省もなく堂々と本を出しているのには驚きました。

 さて今日は日曜日なのでそんな生臭い話はやめにして教会ネタです。今礼拝ではヨハネ福音書が連続説教されています。今日は復活後イエスが弟子たちのところに現れた話です。

 復活したイエスはまず婦人たちに現れ、次いで弟子たちの現れます。弟子たちはユダヤ教徒の攻撃を恐れて戸にカギをかけて閉じこもっていました。弟子たちはイエスと一緒にエルサレムに入城した時は意気盛んだったのですが、イエスが捕らわれ処刑されるとあっと言う間に逃げてしまいます。

 その後弟子たちは集まって隠れていたのです。そこにイエスが現れ、自分の手と脇腹の傷を示したとあります。ここまでが先週の話です。今日は弟子の中で一人だけ復活のイエスに会わなかったトマスに復活のイエスが会う場面です。

 トマスは他の弟子と違っていました。彼だけはイエスに出会った弟子たちと違って、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ福音書20章25節)と言います。

 これはトマスが疑い深かったからだという意見が多いのですが(事実そのような讃美歌もあります。)一方ではトマスはイエスのことを深く愛していたので、弟子たちの話だけでは信じられず、自分で真実を知りたかったという考えもあります。

 おじさんが当時の人間であったとすればやはりトマスのように復活に懐疑的であったと思います。イエスはそれに対して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(前掲書27節)とも「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(前掲書29節)と言います。

 現代は他者不信の時代です。大手ホテルでさえ食材の表示に問題があるのです。それなのにイエスが死者のの中から復活したという信じ難い事実を、自分の目で見ないで信じなさいというのです。信仰というのは結局あなたは何を信じて生きていくのかということになるでしょう。

 自分は自分以外何も信じないという生き方もあります。それはそれでよいと思います。ただ人は何かを信じないと生きて生き難いと思います。ただイワシの頭も信心からではないのです。日本の場合自覚的信仰あるいは自覚的信仰告白というのが少ないです。

 家の宗教という考え方がほとんどです。シニアになれば最期をどう迎えるのかという問題もあります。それはお葬式のあり方やお墓の問題ともかかわってくるでしょう。シニアの読者の方はぜひ考えていただきたいと思います。

 明日は中間考査問題の作成をする予定です。