新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

道徳教育の教科化に思う。

今日も朝方は寒かったのですが、午後からは温かくなりました。今日は授業で先ほど帰ってきたところです。株価は今日も大幅高でした。今日も売却した株は高値なのに購入した株はほとんど上がっていません。

 日本のGDPが発表されていました。上昇はしているようですが、上昇スピードも鈍り、内容にも問題があるようです。これについてはまた書きます。

 さて最近の報道では道徳教育を教科に格上げするようですね。以前も書いたことがありますが、道徳の徳目だけを抜き出して教科として教えるのは無理だと思います。

 そもそも道徳というのは知識として教えるものではないのです。古典のことばに「衣食足って礼節を知る」とも「恒産なければ恒心なし。」とも言います。「礼節」のような道徳の基本というものは、人が人らしく生活できて初めて可能なのです。

 「恒産」も現代風に言えば安定的な収入という意味です。古代の思想家も道徳がきちんと行われる前提として安定した収入が得られる社会が必要だと言っているのです。

 現代社会では道徳が乱れているから道徳教育をやる必要があると言うのが文部科学省などの主張でしょう。それに保守派の人は戦前は修身があったから道徳が守られていたと考えているのでしょう。

 今志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」を授業で教えていますが、そこに修身の教師がでてきます。志賀直哉はその教師を融通の利かない、頭の固い男として描いています。小説は時代を反映します。戦前を生きた文学者の目には修身の教師がそのように映ったし、読者もそれに納得したのでしょう。

 道徳を教えることの難しさは教える側の道徳性が問われるからです。普段いいかげんなことをしている教師が道徳教育の徳目を教えても生徒に笑われるだけです。昔田中角栄氏が道徳を説きましたが、その本人が逮捕されました。

 大阪でも不適格校長が問題になっています。そんな校長のいう道徳など誰が聞くでしょう。価値が多様な時代に一つの道徳を文部科学省が決めてそれを全国の学校で教えるなどできるのでしょうか。文部科学省は命令できますが、教育現場は混乱するだけでしょう。

 もし道徳を小学校で教科として教えている時、生徒が「先生もちゃんと守っているのですか。」と聞かれて、絶対守っていると言える先生は少ないでしょう。もし守っていると答えても教師の偽善さだけが印象に残るはずです。数学や理科なら正しい答えがあります。しかし、道徳には絶対的に正しいという答えはないのです。

 修身で言えば、修身をいやになるほど教え込まれた戦前の人々は敗戦時にほとんど全員法に反するヤミをやりました。ヤミ米を食べず栄養失調で死んだ裁判官が話題になったほどです。敗戦という現状の中では道徳も無力なのです。

 おじさんが子供の頃社会は今よりよほどいいかげんでした。雲助タクシーや神風タクシーが横行し、少年犯罪が激増し(おじさんも中学の頃何度も恐喝に会いました。)公共道徳の低下が問題になったものです。また、JRや電車なども人を押しのけて乗っていました。(今は並んでいます。)

 以前中国の大学で教えていた頃、スクールバスに乗り込む教員のマナーの悪さに驚いたものです。しかし、40年前に日本がそうだったのです。中国のタクシーや自動車運転手のマナーの悪さもかっての日本そっくりです。

 道徳は教科として教えるものでなく、大人が子供に手本を示して教えるものです。また社会が豊かになれば段々よくなります。50年前に日本を見ればよくわかります。まあ仮に教科で道徳を教えても何の効果もないでしょう。

 中国では毛沢東思想論が必修科目ですが、学生さんはもっとも眠い授業だと言います。そして習ったことは全て忘れたと言っていました。おじさが、学生さんに毛沢東の実践論矛盾論を読みましたかと聞くと、先生は共産党員でもないのになぜそんな本について知っているのですかと言われます。私たちは読んだこともありませんと言います。

 おじさんは大学時代読んだのです。ちなみに以前も書きましたが、軍事訓練のテキストは授業日程が終わると山のように教室に捨ててありました。そんなものです。中国の有名な言葉に「上に政策あれば下に対策あり」です。

 おじさんが何を言っても今の政治状況では道徳教育の教科化は進むでしょう。しかし、教科として道徳を教えても何の意味もないことは明らかです。明日も授業です。