新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

越え来し野山見返えればー66歳になりました。

今日は小雪交じりの寒い一日でした。明日も雪にならないか心配です。今日は午後から授業でした。株価も一時高かったのですが、結局安値引けでした。

 アメリカもちょい安だったので、さもありなんと思います。しばらく株価の低迷が続くと思います。自律反発はあるかもしれませんが、力強い上昇というのは3月すぎないと難しいでしょう。

 というわけで今日は株式に関するコメントはお休みです。ところで2月4日はおじさんの誕生日でした。66歳になりました。66年と言うと長いようで短いように思われます。

 タイトルの「越え来し野山見返えれば」は誕生日の讃美歌です。意味は「越えてきた野山を振り返れば」といういみです。これに続いて「げにも生きるはただならじ」という歌詞です。意味は「なるほど生きるというのはただ事ではない」と言う意味です。

 考えてみれば、その年代その年代で苦しいことがありました。幼年期は腎臓病にかかって、運動は禁止され塩分も制限されました。小学1年の時父が亡くなって母が働き大変でした。

 中学時代は12クラス(1クラス55人)のマンモス中学(全校1500人)で競争も大変でした。おまけに今と違って、1番から100番まで正面玄関前に名前が貼り出されました。恥ずかしながら名前がありませんでした。

 高校入試はその街の2番手校でしたが、頑張って地元の公立大学に合格できました。大学受験勉強は「四当五落」と言われ「受験戦争」とも言われた時代です。教師が平気で受験戦争も戦争の一種だから死人が一人二人でても当然だと豪語していた時代です。(教師の大半は戦場帰りでした。)

 大学に入ると大学紛争が待っていました。もちろんおじさんはノンポリです。3年生くらいから勉強にいそしんで、4年になって教員採用試験を受けまくりました。

 3勝2敗1引き分けでした。公立高校と公立中学と東京のおしゃれな私立大学の大学院に合格し、公立高校と公立中学に不合格でした。(どちらも旅行気分で受験したのが悪かったです。)引き分けはおじさんの地元の公立中学で筆記試験は合格したのに、面接で落ちました。

 結局 関西地区の公立高校に勤務しましたが、工業高校で悪戦苦闘しました。3年勤務しましたが、残りの教師生活に匹敵するほど苦労しました。この苦労が後の自分を作ったと思います。「若いころの苦労はお金を出してでもしろ」という言葉をしみじみ実感しています。

 その後地元の県立高校に戻って35年勤務しました。初めの3年以外は全て普通高校です。その間結婚し子供を3人育てました。それぞれ子育てには苦労がありました。2人は結婚し、残りも結婚しそうです。

 定年後は継続雇用を半年し、中国の国立大学で3年勤務しました。帰国して半年ぶらぶらして2年間特殊法人立の専門学校で教えました。ここも工業系です。結局工業系で始まり工業系で終わりそうです。

 幼稚園だけ私立で小中高大学まで公立で、大学院は国立です。公立高校と国立大学(中国)で教え、特殊法人でも教えました。(以前は国立です。)私立大学で働かないかという話もあったのですが、家庭の事情でお断りしました。

 結局生まれて5年間だけ学校に行かず(0歳から5歳まで)残り61年間学校で過ごしました。ある時は生徒としてある時は先生としてです。なんだかんだと言ってもおじさんは学校で人生のほとんどを過ごしていたのです。そんな人も珍しいでしょうね。

 明日も授業です。