新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

伝道開始と病癒しの奇跡

今日は一日曇り空でした。東京都知事選挙は雪と候補者の資質のせいで投票率は低迷しているようです。まあ事前に予想された通りです。入れたい人がいないと言うのが有権者の本音でしょう。

 大阪でも無投票がうわさされている状態です。東京でも一応自公は舛添さんを応援していますが、自党の有力議員から大義がないと言われています。大阪でも橋下さんの辞任には大義がないと議会では認めないようです。東京と大阪という日本の二大都市の首長選挙がこの体たらくではどうしようもありません。

 やはり、日本の政治状況が劣化しているのだと思います。さて今日は日曜日なのでそんな世俗の話はやめて、聖書ネタで行きます。

 以前から書いているように、おじさんの教会では今マルコ福音書を最初から説教しています。今日はいくつかある奇跡の3番目です。一番最初の病癒しの奇跡は悪霊にとりつかれた男から悪霊を追い出した奇跡です。(1章21節以下)

 この病癒しの奇跡は悪霊に取りつかれた男自身が自分から癒しを願ったものではありません。逆にとりついた悪霊が「かまわないでくれ」と言っているのに、「この人から出ていけ」と言って追い出すのです。悪霊に取りつかれるケースは当時結構あったようです。

 今で言う統合失調症などの精神科の病気であったと言われます。次の29節以下でも「多くの悪霊を追い出し」たと書かれています。一つは「シモンのしゅうとめ」のように他の人々がイエスに話して病気を癒してもらうケースです。

 最後の一つは自ら病気の癒しを願ってそれがかなうケースです。今日の1章40節以下は重い皮膚病を患っていた人の癒しについてです。以前の聖書では別の言葉を使っていましたが、不快語・差別語を避けるということからこの呼び方に変わりました。

 この重い皮膚病をその病状の悲惨さから近代に至るまで忌み嫌われた病気です。この病気を患っていた人は謙遜に、治療してほしいとは言わず「御心ならば私を清くすることがおできになります。」とイエスに話かけます。治療の全てをイエスに委ねると言う言葉です。

 それに対して「イエスが深く憐れんで」その男に振れると病気が良くなったという話です。ここまでは良くある病癒しの奇跡です。興味深いのは、それをイエスは宣教の宣伝に使おうとしなかった点です。

 実はキリスト教の本質とこのことは深くかかわっています。逆に言えば日本でキリスト教が広まりにくい原因にもなっています。多くの宗教とくに新しい宗教は病気癒しを宗教を広める手段として用います。

 病気だけでなく、家内安全商売繁盛を売りにする宗教は多くあります。これは現世利益と言ってもいいでしょう。そういうとキリスト教は死後の世界での安泰を売りにしているではないかと言われます。

 しかし、聖書を丁寧に読むと病癒しより「罪の赦し」を優先しているのです。それは次回の説教で取り上げられますので、来週書きます。日本人には罪の意識がほとんどないので、なかなかキリスト教を理解しにくいと思います。

 普通の宗教であれば教祖様が病気をいやしたとなれば、どんどん宣伝し教勢を拡大するところです。イエスは逆に癒された人に「厳しく注意して」、「誰にも何も」話さないように言うのです。

 なぜでしょうか。もし、病がいやされる奇跡の話を聞けば大勢の人が押し寄せてくるでしょう。そしてその人たちは本当の救いでなく、病気の癒しだけを求めます。そのような人は病気がいやされれば去って行きます。イエスのところに来たのは信仰からでなく病の癒しを求めてなのです。

 そうなればイエスは単なる利用されるだけの存在です。利用価値がなくなれば、捨て去られてものなのです。感謝はしますが所詮一時的なものです。

 これはおじさんも強く感じます。教会に来るほとんどの人は悩みを抱えています。そしてその多くは悩みが解消すれば教会から去って行きます。

 信仰の本質は何かを求めるだけではないと思います。もし何かを求めるだけなら、それがかなえられた時信仰は消え去ります。初詣に行く人もお正月だけ大勢で詰めかけ1年分の願いをするのです。

 そのあと毎週日曜日に神社に出かけてお祈りする人は少ないでしょう。お寺ならお盆とお彼岸くらいに行くだけです。教会のように毎日曜日に礼拝に出るような信仰は少ないと思います。

 もちろん教会でも家庭でも願い事を祈ります。この点では同じです。祈りつつ待ち、待ちつつ祈る点がキリスト教の本質なのです。

 主により頼むことこそが信仰の真髄だと思っています。おじさんも祈りのメーリングリストを心に持っていて毎日祈っています。

 明日はのんびり過ごします。義妹が東京に帰ります。