新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

救いの本質ー罪の許しと病の癒し

今日はとても温かい一日でした。昨日まで雪や小雨で車が汚れたので洗車しました。と言っても明日から雨ということなので、簡単に水で洗車です。

 今日は日曜日なので教会(聖書)ネタです。新しい読者の方もおられると思いますが、月曜日から土曜日までは世俗の生活をし、日曜日だけは教会に行って心をリフレッシュしています。

 以前から書いているように、説教はマルコ福音書を最初から講じています。今日は中風の人を癒す話です。この話はいろいろ突っ込みどころがあります。

 発端はイエスが家にいるところから始まります。宣伝をしたわけではないのに大勢の人々が集まってきました。(マルコ福音書2章1節以下)そこへ中風の男を4人の男が担いで来るのです。

 中風の男は寝たきりなのでしょう。4人の男は中風の男の友人だと思います。イエスが病人を癒していると聞いて癒してもらおうと思って来たのです。ところが入口に大勢の人がいて入ることができませんでした。

 するとこの男たちは家の天井に穴をあけてそこから下へおろすのです。他人の家の天井に穴をあけるなどとんでもない話だと言うことになるでしょう。事実同じ内容を持つマタイ福音書では穴をあけた話は省略されています。ルカ福音書では載せています。

 普通であればとがめられるところでしょうが、イエスは4人の男の熱心さに感動して中風の男を見るのです。ところが、イエスはこれまでと違うことを言います。

 これまでは多くの人の病をまず癒したのに、中風の男には「あなたの罪は赦される。」と言うのです。中風の男も4人の男も、そんなことよりまず病気を癒してほしいと思ったはずです。罪の問題などどうでもよい、病気を治してもらいたいから来たのだと思ったでしょう。

 しかし、イエスの元に来たのは、イエスに特別な力(権威と言ってもいいでしょう。)があると思ったからです。さらに言えばそれを信じたから来たのでしょう。そうでなければ他人の家の天井を壊したりはしないでしょう。

 ここに信仰の本質があります。人間にとって一番大切なのは何かということです。信仰の本質と言ってもよいでしょう。多くの宗教はまず信じれば救われると言います。具体的に救いを述べるところも多いです。交通安全の神様や商売繁盛の神様は大勢います。

 イエスはまず罪許されることが大切だと考えてのです。それは病を癒すより重要なことだと考えたのです。もちろん最後には中風の男を癒します。その時そばにいた律法学者たちは、人間なのになぜ罪を赦すことができるのかと考えました。

 罪を赦すことができるのは、自ら全く罪を持たないものだけなのです。そんな人間などいないので、罪を赦すことができるのは神だけということになります。

 イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」と言うのです。日本人にとって罪の問題はそれほど重要ではありません。英語だと刑法上の罪と道徳上の罪と宗教的罪と三種類あったと思います。日本人の場合、罪や汚れは水で洗い流せる程度のものです。

 また塩などによっても払えるものです。キリスト教イスラム教ほど罪について考えることはありません。宗教問題を考える時、この点が日本人には一番難しいことだと思います。

 同じアジアであっても中国も日本と違います。日本だと死ねば全ての罪は赦されると考えますが、中国では墓を暴き死がいを鞭うつこともあります。キリスト教イスラム教でも死で全てが終わるものではありません。

 使徒信条では「ポンテオピラトの元に苦しみを受け」と2000年前の固有名詞を上げて非難します。靖国問題が海外で理解されない理由の一つに神道の宗教観が世界的な常識とかけ離れていることがあると思います。

 日本国内では宗教問題は起こりませんが、グローバル化した世界では宗教問題を引き起こす可能性があります。明日はのんびり過ごします。