新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

選ばれたのは誰れーレビの召命

今日も晴天です。昨日以上に温かくなりました。昨日は大学のサークルの同窓会でした。これについては後日書きます。

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタ(聖書ネタ)です。以前から書いているように、今マルコ福音書の連続説教がなされています。先週は中風の男の癒しの話でした。

 今日はレビの召命の話です。聖書個所はマルコ福音書2章13節~17節までです。レビとはマタイのことです。マタイは後にマタイ福音書を書くことです。

 この個所はマタイ・ルカ福音書にもほとんど同じ内容で出てきます。レビまたはマタイは徴税人でした。徴税人と言えば、今の税務署職員です。今でも税務署の人は恐れられています。しかし、古代イスラエルでは徴税人は罪人とみなされていたのです。

 ここでいう「罪人」(つみびと)というのは法的な意味での犯罪者ではありません。宗教的な意味での罪人です。同時に徴税人はユダヤ人の裏切り者という意味もありました。

 当時ローマは植民地統治のために、自分たちが徴税をしませんでした。なぜなら民族同士を争わせるのは植民地統治の常識なのです。イギリスも植民地統治のために、特定の民族を優遇したりしました。そうすると、優遇された以外の民族は宗主国であるイギリス以上に上位に置かれた民族を憎むのです。

 一種の近親憎悪でしょう。ローマも誰がやっても嫌われる徴税という仕事を同じ民族に任せました。もちろん、その分何か特権がないと憎まれ役をしないでしょう。特権は徴税権をユダヤ人に任せたことです。徴税を請け負った徴税人はローマに納める税金以上の税金を取ることができたのです。

 ローマに納めるのが100なら、徴税人はユダヤ人から150の税金を課して、100をローマに納め、50を自分のものとしたのです。もし徴税人に反対すれば、当然ローマの兵隊が出てきます。ユダヤ人は仕方なく税金を納めていました。

 税金を徴収するのが収税所なのです。そこに係員であるレビは座っていました。これまでイエスに癒してもらった人は自分から救いを求めていました。しかし、レビはただ座っているだけでした。聖書でに「レビが収税所に座っているのをみかけた」とあります。

 それに向かってイエスは「わたしに従いなさい。」と呼びかけます。イエスはなぜ大勢人がいる中でレビを選んだのでしょう。普通救われる人は修行を積むとか、高い徳のある人とか、学業が優れている人でしょう。なぜ皆から嫌われている、言い方を変えるなら民族の敵、民族の裏切り者徴税人レビを選んだのでしょう。

 ここにキリスト教の本質があります。おまけにレビを選んだ後、レビの家で宴会に出席するのです。そこには「実に大勢の人」がいたのです。そこにいたのは、「多くの徴税人や罪人」だったようです。

 イエスのような神の道を説く人が民族の敵や宗教的罪を犯している人と一緒に食事するなど大変なことでした。事実、ファリサイ派の律法学者たちは非難の目で眺めています。

 それに対してイエスのことばは極めて印象的です。「「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである。」と言います。レビはなぜかイエスについてくるように言われた時「彼は立ちあがってイエスに従った」とあります。

 レビは街の収税所に座って何を考えていたのでしょう。街行く人のレビを見る目は冷たかったでしょう。レビにとって豊な経済生活だけで満足できたでしょうか。人はパンだけで生きるのではないと言われます。イエスからの呼びかけにレビは自分の生きる道、自分を必要とされる生活を見つけたのでしょう。

 以前幸福教室という番組で、ヨーロッパの大手銀行のエリート行員が全てを捨ててインドで奉仕活動をしていました。彼は銀行で高い収入を得、高級車に乗り、美味しい物を食べたけれど心は虚しかった。今は何もないけれでも心は充実していると言いいました。

 お金を軽視する気も蔑視する気もありません。それは必要であるが、だからと言って物だけでは満足しません。お金はそこそこあっても心の豊かさが必要なのかもしれません。

 明日は最後の授業(答案返却)です。これで今年の授業は全て終わりです。