断食が恵かー自力救済と他力救済
今日はうす曇りでおまけに一時雨が降りました。今週からまた冬に戻るとのことで大変です。早く春になってほしいものです。
このところウクライナ情勢が急速に変化しています。公然としたものではありませんが、ロシアの軍事介入がクリミア半島であったようです。このまま行くと、ウクライナ西部と東部、それにクリミア半島の3つにわかれてしまいそうです。
日本の株式市況も外国為替相場も影響を受けると思います。今何とも言えないので、明日の相場展開を見て書きます。
とりあえず、今日は日曜日なので教会ネタにします。今日も聖書ネタです。いつも書いているように、マルコ福音書からです。聖書個所を書いても読む方はほとんどいないでしょうから、内容だけ書きます。
今日の話はパリサイ派の人たちなどから、イエスはあなたの弟子はなぜ断食をしないのかと言われます。それに対して、断食をするのは救いを求めるためである。しかし、私の弟子はすでに救われているので断食の必要などないというのです。
その後の言葉が有名な「「新しいぶどう酒は新しい革袋に」というものです。ここでは新しい教えは新しい考えで実行しなければならないというのでしょう。
イエスも断食自身を否定しているのではないでしょう。自らそれが良いことだと考えればそうすればよいのです。問題は断食することを他の人より良いことをしていると考えることです。
また断食つまり修行することで救われるというのは自力救済です。簡単に言えば自分の努力で救われるということです。それなら意思の弱い人や事情で修行できない人は救われないのかということになります。
救いは自分の努力の結果与えられるものなのか、主の恵みによって与えられるものなのかという信仰の本質にかかわる問題です。その点では悪人正機説や他力本願を主張する浄土真宗の教えにキリスト教は近いものでしょう。
キリスト教の教えはまず自らが罪人であるという自覚から始まるのです。自ら「われ罪人のかしらなり」という自覚があれば、他者を弾劾することもないでしょう。いじめも起こりにくくなるのです。
今の日本は他者を責めるあるいは糾弾することで自らのアイデンテテイを確立しようとしています。自分は悪くない、悪いのは他人だというのでは何の解決にもならないでしょう。
歴史認識でも、自ら悪くないという証拠ばかりを探し、自己弁護に終始するなら人の心を打つことはありません。自らの罪の自覚の上で事実を明らかにするなら他者も受け入れやすいでしょう。
安倍さんの動きを見ると自らの罪を一切認めない態度ばかりが目につきます。自らの罪を認めることが自虐なのだそうです。罪の自覚のないところには救いはないでしょう。
聖書が2000年間続いたのはそれなりの真理があるからでしょう。安倍さんの考えが2000年後にも評価されるならいいのですが。人文科学の真理は歴史の長さが検証します。(自然科学の真理は実験で実証できます。)
真理は時代を経ても朽ちず古くなりません。聖書を読むたびにそのことを思い知らされます。
明日は教会の資料作りです。