新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

奇跡の受容ーイエスとファリサイ派

今日は朝から晴天でした。昨日は孫が来ていてそのお世話でブログが書けませんでした。昨日は孫と映画に行きました。映画はドラえもんです。ドラえもんとノビタたちが魔境に行く話です。

 今回はジャイアンが格好良く活躍しました。孫も大喜びでした。さて今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。このところ聖書ネタで書いています。

 聖書を読み始めて45年以上たちますが、何度読んでも新しい発見があります。とくに現在のように福音書を始めから順次読んでいくとますますいろいろなことが分かります。

 今回は安息日をめぐるお話です。当時のユダヤ人にとって安息日を厳密に守るということは大切なことだったようです。そもそも安息日の規定はのべつまくなし働くのではなく、使用人や奴隷に至るまで必ず休息させるために設けられたものなのです。

 ところがこの時代、できるだけ律法を厳密に守ることで宗教的的な救いを得ようとしたのです。ファリサイ派の人にとってそれはアイデンテテイの証明でもありました。

 一方イエスは「安息日は人のために定められた。」(マルコ福音書l2章27節)と言うのです。ファリサイ派の人にとって自らのアイデンテテイを否定されるイエスは憎い存在でした。

 マルコ福音書の2章から3章にかけては、イエスファリサイ派の人の憎しみを買っていく姿が描かれています。そして、今日の箇所3章の1~6節でそれが明らかになります。

 ここでは安息日に治療をすることの是非が問われています。すぐ前の箇所では安息日に取り入れや脱穀をすることの是非が問われていました。

 今日の話も人は奇跡を見た時どう反応するかが分かる個所です。もちろん癒してもらった人は大喜びでしょうが、それを見た人が全員喜ぶわけではないのです。

 当時の律法によれば緊急の治療以外安息日には医療行為をしてはいけなかったのです。しかし、病人にとっては安息日であれなんであれ治療してもらいたいものです。

 きょうの箇所は手がなえている人の治癒の話です。イエスが手の萎えた人を治癒したのを見てパリサイ派の人は怒りをさらに深めます。それは彼らの論理が打破されたことでもあります。

 そして「ファリサイ派の人々は出て行き、さっそくヘロデ派の人と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ福音書3章6節)とあります。原理主義の人は原理を守ることが自らの存在意義なのですから、それを否定されるなら生きていけないのです。

 この場合、自らの生き方を変えるか、相手を抹殺することで自らのアイデンテテイを保つかです。怨恨による殺人はほとんど、自らの生き方を変えるのでなく相手を抹殺することで自らのアイデンテテイを守ろうとします。

 今起こっている別れた相手を殺すのと同じ状況が古代にも起こっていたのです。人間の心の闇の深さはどの時代でも同じだと思いました。

 明日はツマクマの所用のお伴です。