新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

イエスの家族ー3つの福音書の比較から

昨晩から今日の未明にかけて激しい雷雨でした。おかげで教会の屋根に取り付けた十字架に落雷したようで、教会の電気系統がやられました。その激しさは2階の壁にかけてあった時計が落ちて硝子が破れているほどです。

 おかげで牧師館は停電するし、エレベーターも休止したままです。今日は朝から晴れて午後にはとても温かくなりました。

 さて今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日も聖書ネタです。今キリスト教関係の本を2冊読んでいます。もうひとつは全く別の世界の本も読んでいます。どちらも読み終わったら紹介します。

 キリスト教関係の本は「旧約聖書の謎」( 長谷川修一著 中公新書)でもう一つは「福音書ー四つの物語」(加藤隆著 講談社選書)です。加藤隆さんはキリスト教関係の大学でなく何と国立大学の教授です。(千葉大学)海外の大学で博士号それも神学博士号を取得しています。

 小保方さんと違って神学博士号を得るためにはコピペーなど絶対に許されません。そもそもコピペーするような人が神学の勉強をするはずもありません。神学博士号を得ても就職先はキリスト教関係の以外ほとんどないからです。

 加藤さんの本では四つの福音書の相違について書いてあります。今日のタイトルの話もそれと少し関連があります。まず基本知識として四つの福音書のうちヨハネ福音書だけば他の三つの福音書と内容が大きく異なっています。それで他の三つ(マタイ・マルコ・ルカ)を共観福音書といいます。

 とは言っても厳密に内容を検討すると著者の視点の違いが結構あるのです。それは出来事は同じであっても微妙な表現(ある部分の簡略化など)の違いがあります。

 今日の説教はマルコ福音書3章31~35まででした。神学的な内容は省いて、イエスの身うちのイエスに対する評価について書きます。実は身うちの人にとってイエスの行動は理解できないものだったのです。

 マルコ福音書はそれを明確に述べます。しかし、他のマタイ・ルカは違います。マルコではなんとある街でお話をしているイエスを「身うちの人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。」(3章21節)とあります。
 
 その街とイエスの故郷とは40キロ以上離れているのです。ですから身うちの人たちは大変な苦労をしてでもイエスを取り押さえようとしたのです。

 今日の聖書個所でもイエスのいる家には入らず「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」とあります。もしかしたらイエスの母や兄弟たちも身うちの人と同じで、イエスの仲間と思われたくなかったのかもしれません。

 この個所についてマタイ福音書では単に「その母と兄弟たちが話したいことがあって外に立って」いた(12章46節)としか書かれていません。ルカ福音書に至っては「イエスのところに母と兄弟がきたが、群衆のために近づくことができなかった。」(9章19節)とマルコ福音書とは全く違った視点で描かれています。

 イエスの答えは一貫しています。自分の母や兄弟というのは自分を慕っている人たちなのだということです。マルコ福音書6章1節以下でも故郷で理解されないイエスの姿が描かれています。これはマタイ・ルカ福音書にも似たような話がでてきます。

 3つの福音書の記述を比べてみると、マルコ福音書の記述が一番事実に近いのではないでしょうか。人文科学の研究ではそれぞれ微妙に異なる表現からいろいろなことを追求するのです。

 文学作品でも初版と2版で表現が違っていたり、雑誌に掲載した時と単行本として刊行された時で内容が大きく異なることがあります。たとえばあの有名な芥川龍之介羅生門の最後「下人の行方はだれも知らない。」は最初そうではなかったのです。

 それが後に書きかえられたのです。書きかえられた表現は名文句として残ったのです。もちろん著者は何か思うところがあってそう書き変えたのでしょう。

 福音書も照らし合わせてみるとさまざまなことが分かっておもしろいです。明日も忙しいです。