「復活」(イースター)についてのいささかのコメント
昨日の夜半から雨でしたが、午前中には晴れました。昨日は忙しくてブログを書くことができませんでした。今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。
とは言え復活に関する記事は福音書によって少しずつ異なっています。しかし、大本になる事実はそれほど違いはありません。
つまり4つの福音書に共通する部分が初期キリスト教徒に信じられた出来事だと思います。復活に至るまでを簡単に書いてみますと、キリストが十字架にかけられてなくなった後、議員だったヨセフがローマ総督に願い出て、その遺体を墓に埋葬したことです。
墓と言っても日本の墓のように地中に埋めるのでなく、崖の横穴のようなところに葬ったようです。そして入口には大きな石があり、それでふさいでいたようです。
そして、安息日がすんだ日曜日に婦人たちが墓に行ってみると、石がどけられていて墓にはイエスの遺体がなくなっていたことです。そこにはある福音書では天使がまた別の福音書では若者がいて、イエスはいないと婦人たちに告げるのです。
福音書の記述を全面的に信じるとすれば、墓の石が取り除かれ、墓の中にイエスの遺体がなかったことだけは間違いないと思います。ですから現代でも復活ではないとすればイエスの遺体を誰が運び出したのかという推理がなされるのです。
普通に考えれば遺体を運びだしたのはイエスの弟子か信奉者ということになります。ところがイエスの弟子たちは皆逃げ出していなかったのです。直接イエスに従った者たちが逃げ出しているのに処刑された犯罪書の遺体を危険を犯して盗み出す者がいるでしょうか。
もちろん復活したイエスを信じない弟子たちもいました。一番有名なのはトマスです。讃美歌にもうたぐり深いトマスと言われます。彼は自分はイエスの傷を見ないと信じないと言います。それに応えてイエスは、脇腹の傷(イエスは十字架上で脇腹を槍で刺されたとあります。)と手の傷(十字架に手を釘で打ちつけられたとあります。)を見せます。
恐れ慄いていた弟子たちが突然勇気を持ち、堂々とイエスの教えを世界中に広めていくのです。回心というのはそれまでの生き方を根本から変えることです。
一人の人間だけでなく複数の人間が根本的に変えられ、死をも恐れぬ人間になったのです。人間はそう簡単に変われるものではありません。そこのは何か人間を根本から変える経験があったと思います。
福音書はそれが復活したイエスに出会ったからだとするのです。現代につながる聖書の言葉は「見たから信じるのか、見ないで信じる人は幸いである。」です。おじさんはイエスキリストの姿を見ることはできません。しかし、復活の出来事があったと信じています。
今日は墓前礼拝がありました。おじさんは所用で行けませんでしたが、死者が最後の審判の時によみがえるというのがキリスト教の信仰です。最後に審判の日がいつか知りませんが、その時まで死者は長い眠りにつくのだと思っています。
70歳が近付くと死について考えるようになりました。復活の信仰があれば少し安心です。明日は友人のミヤジイと会う予定です。