新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

イエスを一番受け入れなかった人々

今日も一日雨でした。明日も雨の予定のようです。今日は日曜日なので教会へ行ってきました。午後からは長老会(役員会)がありました。それが終わって家に帰ってこれを書いています。

 日曜日なので恒例の教会ネタです。今日は今日の礼拝の説教から書きます。今日の聖書個所はマルコによる福音書1章~6章です。

 ところでタイトルの「イエスを一番受け入れなかった人々」はどんな人でしょうか。もちろん、ユダヤ教の聖職者やファリサイ派の人たちもそうでしょう。

 庶民の場合どうでしょう。イエスの元には大勢の人が病や障害を治してもらおうとして集まってきました。当時の医療水準から言えば、医療を頼みにすることはできませんでした。

 それで大勢の癒しをする人たちがいました。魔術師を呼ばれる人たちも大勢いました。その中でイエスは人を癒す力を持っていたのですから、大勢の人が集まってくるのは当然でしょう。

 ところが、イエスに全く関心を持たない人たちもいたのです。それはイエスの地元の人たちです。先述した個所の表題は「ナザレで受け入れられない」です。

 ナザレとはイエスの生まれ故郷です。今日の記事にはイエスの兄弟姉妹たちの名前を出ています。またイエスが大工であったことが書かれています。当時すでに父であるヨセフは亡くなっていたようです。

 ナザレの人たちにとって若い頃から地元で大工をしていたイエスが救い主だと言われても納得できなかったと思います。

 おじさんも教え子が立派な医者になったり、東京のテレビ局の部長になったりしていても、何だかピンときません。あいつが本当に医者になって患者を見れるのかと思ったりします。

 身近であればあるほど昔のイメージが強くて今の状況を受け入れられないのだと思います。イエス自身も聖書によれば「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と述べています。この個所は福音書の記者にも重要だと思われたのでしょう。

 マルコ以外にもマタイとルカ福音書にでています。現代でも通じる話しだと思います。故郷の人々がイエスを受け入れなかったので、イエス自身も「そこではごくわずかの病人に手を置いていやされた」だけだったようです。

 聖書の中にはいろいろな人がいます。読み物として読んでも聖書はなかなか面白いものです。そこに出てくる人間たちは現代の人間とそれほど変わらない人たちなのです。

 明日はツマクマの所用のお手伝いで忙しいです。