ヘロデとピラトー権力者の限界
今日は蒸し暑い一日です。午前中は教会で昼ごろ帰ってきました。ほとんどの教会は午前10時半くらいから11時半くらいまでです。中国の教会は日曜日4回も礼拝があっていました。一番早いのは8時からです。次が10時、午後2時からと夕方7時です。
今日は司式と言って礼拝の司会の当番でした。長老(役員)が交代で役目を果たします。結構緊張するもので、以前は何度も順番を間違って恥をかきました。
今日は日曜日なので教会ネタです。先週に続いて今日も聖書ネタです。以前から書いているように礼拝説教では毎週順番にマルコ福音書を取り上げています。
聖書は何十年も読んでいるのであらすじは知っているのですが、細かいことまで気がつかないことがあります。毎週丁寧に聖書個所について説教があるのでおもいがけず気づかされることがあります。
西洋の宗教画によく登場します。今日の聖書個所の場面は小説「サロメ」になったり絵画に描かれたりした場面です。ストーリーについて興味のある方は聖書を読んでください。
今日はちょっと視点を変えて二人の権力者について考えてみました。欧米なら広く知られた二人ですが、日本ではほとんどなじみのない人です。
ここに出てくるヘロデはイエス誕生のドラマで幼児を殺した王ではありません。その息子さんで聖書ではヘロデアンテイパスと呼ばれます。ピラトはキリストを裁判にかけて死刑にしたローマの総督です。
二人ともどちらかと言うと悪者としてのイメージが強いのですが、聖書をよく読むと理性的権力者の限界というものが良く分かります。
ヘロデは自分の結婚について批判していた預言者ヨハネを逮捕します。なぜヨハネはヘロデを批判したかと言うと彼の妻が自分の異母兄弟の妻だったからです。ヨハネはこの結婚はユダヤの律法に違反すると言って非難したのです。
ヘロデとしては公衆の面前で自分を非難する人間を野放しにはできませんでした。ここまでは権力者として当然なのですが、ヘロデは預言者ヨハネを嫌悪していたわけではありません。マルコ福音書によれば「ヘロデがヨハネは正しい聖なる人」であることを知っていました。
一方非難されたヘロデの妻は自分たちの結婚を非難するヨハネを殺そうと思っていたのです。ヘロデはヨハネを殺すどころか「彼(ヨハネ)を恐れ、保護し」それどころか「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けいた」のです。
ヘロデは困惑しますが、「誓ったことでもあるし、客の手前、少女の願いを退けたく」なかったのです。そして牢屋に居たヨハネの首をはね盆に載せて持ってくるのです。
権力者というものはそんな気まぐれなものです。少女の願いと客へのメンツであっさりと尊敬していた人間の首を切り落とすのです。
この二人はそんなに悪い人とも思えないのですが、自ら信じるところを貫けなかったために、2000年もの間悪者としてその名を残すことになったのです。ヘロデの妻(ヘロデイア)も悪女としてその名を歴史に残すことになりました。
聖書は教訓の書だけでなく生きて働く人間の姿をよく表しています。明日は庭の草刈りをしなければなりません。