新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

戦争の思い出

今日は一日雨でした。おまけに雷まで鳴って大変でした。それで一日家で過ごしました。

 株価の方はちょい高で終わりました。おじさんの持ち株の建設株だけが上がりました。盆休みも終わって来週からいよいよ本格的な商いが始まると思います。


 ところで今日は終戦記念日です。本来は敗戦記念日というべきですが、日本人お得意の言葉の言い換えで、インパクトを少なくしています。本当は敗戦記念日として、なぜ日本が敗戦に至ったのかを考える日なのでしょう。

 ところが、学校でも戦争の反対語の平和だけを取り上げます。まあそれはそれでいいのかもしれませんが。ところで現代では戦争に関するものはほとんどなくなりました。

 おじさんは戦争が終わって3年目に生まれました。物心ついたころでも沢山戦争の思い出がありました。おじさんの家でも父の弟がサイパン島で戦死しました。実家には石ころが入った骨ツボがやってきたそうです。

 子供の頃実家に行くと「遺族の家」とプレートが貼ってありました。最初何のことか分かりませんでしたが、後に母親から話を聞いて理解できました。もちろん父親も戦争に行きました。戦争が終わって当時軍隊で使っていた飯盒をもって帰りました。

 その飯盒のは工○○(○○はおじさんの姓)と名前が書いてありました。おじさんの父親は工兵でした。終戦直前まで九州の海岸で塹壕を掘っていたそうです。アメリカ軍が九州に上陸したら真っ先に戦死したといっていました。

 家の縁側から庭の降りる踏み台は旧陸軍の弾薬箱でした。ちょと町はずれに行くと防空壕がありました。中にはホームレス(当時は浮浪者と呼んでいました。)の人が住んでいたりしました。子供たちが防空壕で遊んで危険だということで埋められました。

 戦後を象徴する占領軍もおじさんの町にいました。繁華街のすぐ近くに米軍のキャンプがありました。空軍の基地もありました。おじさんの友人など、この基地の射爆場(演習場)で機関銃の薬莢を拾って売っていたそうです。

 この友人は後に県立高校の校長までなった人です。米軍の基地は1970年ころまでおじさんの町にありました。大学生の頃基地撤去のデモでおしかけたこともありました。

 今ではすっかり戦争を思い出させるものがなくなりました。若者の中にはもう一度戦争をしようという人もいます。そういえば今日のニュース記事の中に戦死者の6割は餓死だったとあります。無謀な戦争の反省なしに集団的自衛権など行使すれば、先の大戦の二の舞になります。

 明日は同窓会に行って忙しいのでブログはお休みです。