新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

罪の赦し体のよみがえり永遠の生命を信ず

今日は日曜日なので教会です。今日は教会学校の説教に司式(礼拝の司会)と忙しかったです。今日は教会学校の説教から書きます。

 タイトルの言葉は「使徒信条」の最後の部分です。使徒信条とはキリスト教の信仰の本質を言い表したものです。キリスト教が成立した時、さまざまな信仰が表明されました。その中で統一的な信仰告白を言い表したのでこの信仰告白なのです。

 この使徒信条は世界中の教会で告白されています。もちろん以前行った中国の教会でも告白されていました。中国語は主語の後に動詞がきます。ですから「○○を信ず」という個所は「我信~」となります。

 今日のタイトルの部分はキリスト教の本質を言い表しています。今日の説教はタイトルの通りだったのです。そこでこの言葉について書きます。

 極めて信仰的な内容なので興味のない方はパスしてください。キリスト教の特徴はまず何よりも罪を重視することです。カソリックの場合、懺悔(告解)と言われるように神父さんに自分の罪を告白し、神父さんが赦しを与えることがあります。

 これほどキリスト教において罪の赦しは大事なことなのです。キリスト教の理解では罪なきイエスキリストが十字架にかかって死ぬことで人々の罪が償われたと考えるのです。(難しく言えば贖罪です。)

 次は体のよみがえりです。この「体のよみがえり」と「永遠の生命」は死生観を示しています。特に死に対する考え方を示しています。

 「体のよみがえり」はイエスキリストが死んで葬られて3日後に死者の中から蘇られて、弟子たちの前に現れたことから始まります。

 もちろんいつ体がよみがえるかは不明です。世の終わりに生けるものと死ねるものとを裁くときが来ると言われます。いわゆる最後の審判なのです。

 永遠の生命は永遠に死なないという意味ではありません。実際何百年も死なずに生きているというのは大変なことです。不老不死ではないのです。そうでなく、体はなくなってもよみがえりの時まで主のもとで生き続けるということです。

 おじさんはもちろん死んでもそれは終わりではなく、死ねば神様のもとに戻って、先に神様のもとに行った人たちとよみがえりの時までとどまると考えています。

 それは迷信だとか非科学的だと考える人も多いと思います。しかし、日本人のほとんどの人はお盆には先祖の霊が戻ってくると考えています。靖国神社などは戦争で死んだ人の魂が神社に祀られていると考えています。

 これを迷信だとか非科学的だと考える人はほとんどいないでしょう。それと同じです。死ぬとどうなるのかは人間にとって最大の問題なのです。

 身近な人が次々に死んでいく年になって益々死後のことについて考えるようになりました。明日もいろいろ忙しそうです。