大学の意味について考える。
昨日に続いて今日も教育ネタです。先週はずっと経済ネタばかりだったような気もします。このところ政治も経済も面白い話題がないので今は教育ネタが続いているのです。
いわゆる学力以外の力を見ようというものです。これはOA試験や推薦入試と同じで学力以外で学生を取ると学生の学力低下を招くだけです。それに高校2年次と3年次に試験を数回するようですが、問題つくりも大変だし、高校側の対応も大変です。
普通高校では3年の体育祭で受験体制に入ります。ところが2年から試験があるとすれば、1年次から対策を立てねばなりません。ゆとり教育でもわかるように、文部科学省が理想に燃えて何か教育制度をいじるとろくなことはありません。
まあ孫の時代なので何とも言えないところですが。次は本題の大学の意味についてです。大学進学率が上昇してから、大学の意味が問われています。
大学は何か役にたつ技術を身に着けるところか、それとも教養を身に着け学問を深めていくのかということです。以前は大学は教養を高め学問を習得するところだと言われました。
ところが高度成長後大学は何か役に立つことを学ぶべきでという意見が強まりました。その後、再び教養が見直されるようになりました。あまりに教養のない大学生が社会に出て恥をかくようになったからです。
そして、大学全入時代になると再び役に立つ教育というものが言われだしたのです。極端な意見では大学の経済学部では簿記ができればよいという意見もあります。ミクロやマクロ経済学それに日本経済史など勉強知っても社会では役に立たないというのです。
おじさんの時代は大学は教養と学問探究の場でした。今の大学院生が勉強するようなことを学部でやっていました。それが当然だったのです。
そんな時、戦国時代に書かれたローマ字の本など学んで何の意味があるのか先生に聞いたことがあります。先生は「すぐ役に立つ知識はすぐ役に立たなくなります。真理を知るための学問をすれば、それはどんな時にも役に立ちます。」と言われました。
今でもそれは真理だと思います。おじさんの大学時代の専門は国語学(日本語学)です。分野としては音韻とか文字表記とか言語理論、方言、文法などがあります。おじさんは文法が専門です。
中学時代陸上の選手で高校で別のスポーツをして大成した選手もいます。大学の勉強は社会でのステップのためのものです。国語学をきちんとやったお蔭で経済問題も理解できるようになりました。
学問のスタートはその学問の基礎知識を得るところから始まります。専門用語を覚え、その学問独特の考え方を学ぶのです。そこから次が開けてきます。
経済知識も同じです。教師になって法律学を学んだ時それを感じました。辞書的な意味での「許可」(許すこと)と法津用語の「許可」(禁止の解除)は違うのです。運転免許証は法律的には「免許」でなく「許可」だという話を行政法の授業で聞いたとき、あっけにとられたものです。そうなると「免許」とは何かとつながってくるのです。
しかし、慣れるとなんということもありません。法律行為と事実行為はどう違うかというのも面白かったです。ちょうどおじさんの専門でいえば「上代特殊仮名遣い」と「定家仮名遣い」と「現代仮名遣い」はどう違うのかと同じです。
一度専門用語を覚え概念を理解すればなんと言うことはないのです。そのための訓練を大学でしたのです。たんなる役に立つ知識であれば国語学などもっとも社会の役に建たないでしょう。
そんなことはないのはこれまでの記述でお分かりの通りです。明日もいろいろあります。