新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

二つの癒し―弟子とイエス

今日は日曜日なので教会ネタです。今日は久しぶりに聖書の読み解きからブログを書きます。説教というのは聖書をどう読み解くかについて語るものです。

 徒然草にも「先達あらまほしき」(案内人がほしい)と書かれています。これはある法師が自分の思い込みで目的を果たせなかった話です。

 人間というものは、ある中心的なテーマに目が向くとその周辺を見落としてしまうものなのです。今日の説教箇所はマルコ福音書9章14節~29節まででした。この箇所のサブタイトルは「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」です。

 この話はずいぶん前から知っていましたが、今日の説教を聞いて目からうろこでした。(ちなみにこの比喩は聖書から来ています。)

 この話はルカ福音書にもマタイ福音書にも出ていますが、ルカ福音書はただイエスが子供をいやした話だけを載せています。マルコ福音書で語られたこととはずいぶん違います。

 ある資料を使って出来事を取り上げるにしても聖書記者(聖書を書いた人)の信仰観と言ったものがあるのでしょう。マタイ福音書はマルコ福音書に近い内容になっています。

 このルカ福音書を除く二つの福音書ではこの病気の子供の癒しをまず弟子たちがやったのですが、うまくいかないで結局イエス自身が癒しを行ったと記されています。

 ポイントはなぜ弟子たちが癒しを行ったのにうまくいかなかったのかという点です。実は弟子たちもマルコ福音書3章15節によれば「悪霊を追い出す権能を持たせるため」に12人の弟子を選び派遣したのです。

 事実彼らは悪霊を追い出すという癒しを行たと思います。それによって弟子たちは自分の癒しの力に自信を持ちだしたと思います。本来その癒しの力はイエス、さらには神を通して与えられたものなのです。

 しかし、そのことをだんだん弟子たちは忘れて自分の力が悪霊に取りつかれた人たちを救ったのだと思い始めたのです。そして、今日の箇所でイエスと3人の主だった弟子たちがほかの弟子たちのところに来てみると、他の弟子たちが律法学者と議論しているのです。

 どうも弟子たちが霊に取りつかれた子供から汚れた霊を追い出せなかったことを律法学者に非難されそれに反論していたようです。その間その子は放置されていたのです。

 イエスに対して子供の父親は「おできになるなら」自分の子供を救ってほしいと願うのです。親にしてみれば、これまでいろいろな人に癒しを頼んだけれどうまくいかなかった経験があるのでしょう。またイエスの弟子にお願いしたけれどうまくいかなかったので、こう言ったのでしょう。

 それに対してイエスは「できればと言うのか。信じる者には何でもできる」と答えます。信仰というのは、自分の力を越えた存在に祈ることで成し遂げられるのです。

 弟子たちはこれまでの癒しの体験で次第に自分の力を過信し慢心していたのではないでしょうか。これをイエスは鋭く見抜いていました。事実「弟子たちがひそかに、なぜわたしたちはあの霊を追いせなかた」かについて質問しています。

 この質問にはこれまで自分たちは自分たちの力で悪霊を追い出したのに、今回なぜ追い出せなかったのか疑問に思ったのでしょう。この質問に今回の二つの癒しの違いが明らかです。

 イエスの答えは「祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と答えます。イエスの答えの中に弟子たちの失敗の原因が明らかにされています。弟子たちの癒しの中には「祈り」(信仰)がなかったのです。

 これまでこの話をイエスによる奇跡の一つとだけ理解してきました。今日の説教を通して全く違った解釈ができるようになりました。礼拝説教を聞く意味はここにあるのだと考えさせられました。

 来週は教会修養会です。明日からこの世の生活になります。ということで、明日の対ドル相場と株式相場が気になります。