新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

離縁について(のイエス)の教え

今日は日曜日なので教会に行きました。今年最後の礼拝です。次は元旦礼拝です。これは教会歴に決まったものでなく、おじさんの教会で実施しているものです。

 今日は興味深いテーマで説教がありました。テーマは離縁つまり離婚についてです。カソリック教会では離婚を禁止しています。簡単に言えば離婚を認めないのです。

 その根拠はマルコ福音書10章7章以下によっているのです。この話はマタイ福音書19節以下にも同様の話がでてきます。

 いつも書いているように福音書はそれぞれ取り上げられているテーマが違うのです。福音書記者の考えが取り上げる内容にかかわっているのです。例えば有名なクリスマス(キリストの生誕)の話はマルコ福音書ヨハネ福音書にはでてきません。

 さて離縁(離婚)の話ですが、イエスが離縁の話だけが一つの教えとして出てきたわけではないのです。そもそもこの話題を持ち出したのはイエスと敵対するファリサイ派の人たちです。この話題が取り上げられたのは、イエスのいる地を治める王に離縁の問題があったからです。

 この地の王は自分の王妃を離婚して兄弟の妻を自分の妻としたのです。そのことはユダヤ中で問題になりました。この結婚を非難したのが預言者ヨハネです。彼は問題となった王の娘の依頼で首をはねられるのです。

 その娘がサロメです。近代絵画でも「ヨハネの首」を題材にしたものがあります。ところでファリサイ派の人が狙ったのはどのような答えをしてもイエスが困るような問だったのです。

 それは「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか。」という問いでした。一見するところ何ということもない問です。ユダヤの律法では夫が離縁状を書けば離縁することは可能なのです。そんな分かりきったことをなぜ聞いたのでしょうか。

 先に書いたようにこの地の王は自分の妻を離縁して兄弟の妻を妻としたのです。それはユダヤ中の非難を浴びることだったのです。ですから、離縁を認めることは王におべっかいを使う人間だとイエスは認められるのです。

 もし離縁は許されないと言えば、王を非難することになります。ファリサイ派の人はイエスが王を非難していると王の役人に訴えることもできたのです。

 イエスの答えは当然ユダヤの律法を肯定します。「モーゼはあなたたちに何と命じて命じたか。」と問います。当然律法によれば離縁状を夫が出せば離縁することができるのです。
 ファリサイ派の人の答えを聞いた後イエスは「あなたちの心が頑固なのでこのような掟をモーゼが書いたのだ。」と言います。この話題の中心は「心が頑固」という点にあります。

 離縁の原因は人間の「心の頑固さ」にあるというのです。心の頑固さは人間の罪と言ってもいいでしょう。その後イエスキリスト教の結婚式でよく言われる「神が合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と言うのです。

 離縁(離婚)は当時のユダヤでは男性の側から離縁状を出すことで成立しました。現代の離婚のようの夫婦のどちらからでも申し立てできるものではなかったのです。かっての日本のように夫が気に入らないと離縁できたのです。

 現代の離婚事情とはイエスの時代は違います。聖書は2000年近い昔の社会をもとに書かれています。ですから一律に聖書を現代に当てはめることはできません。

 聖書の前後をよく読んで理解する必要があります。ある部分だけを取り出して理解するとイエスの言葉を誤解することがあります。ちなみにプロテスタント教会には離婚した方も大勢います。また牧師自身が離婚することもあるのです。

 生涯独身のカソリック教会の神父さんとは違っています。明日も相場(外貨・株式)が立ちます。行方が気になります。心はすでに俗世へ移動しているおじさんでありました。