新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

子供を祝福するイエス

今日は2015年初めの礼拝でした。教会 の場合クリスマスから1年が始まります。ですから、新年は通過地点にしか過ぎないのです。欧米の場合、新年は1日だけの祝日です。クリスマス休暇はあっても新年の休暇はありません。

 さて今日の説教は新年の説教ではありません。新年向けの説教は新年礼拝であります。ところで新年礼拝は極めて日本的な教会行事です。

 今日の礼拝はマルコによる福音書の中から説教がありました。マルコ福音書10章13節からの説教です。ここではイエスが子供達を祝福する話です。サブタイトルとして「子供を祝福する」とあります。

 人々がイエスに触れていただくために人々が子供を連れてイエスのところに来ました。イエスは病人を癒し、障害者の障害を取り除いたのですから、イエスに触れてもらえればきっと子供にの良いことがあるだろうと当時の人々は考えたのでしょう。

 今でもさまざまなお祭りなどに似たような発想があります。何かに触れてもらって子供に祝福が訪れるというものです。ところが弟子たちはイエスに子供達をふれさせようとする人々を叱りつけました。

 弟子たちにすれば、イエスは大人の対応で忙しいのに子供などは連れて来るなと言うところでしょう。今は子供というだけで可愛がってもらえますが、当時はそうではありませんでした。

 当時だけでなく、子供が現代のように子供として扱われるようになったのは近代になってからです。アリエスの「子供の誕生」でそのことが詳しく述べられています。以前は子供は未熟な大人として扱われていたのです。近代以前は小学生くらいの年で大人に交じって働いていたのですから、当然でしょう。(日本は例外的に古代から子供をかわいいものとして認識しました。)

 さてイエスはそんな弟子たちを見て「憤り」次のように言います。「子供達を私のところに来させなさい。妨げてはならない」と言うのです。

 その次の言葉が有名な「神の国はこのような者たちのものである。」と言うのです。さらに続けて「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない・」と言います。

 「子供のように」とはどういう意味でしょうか。現代日本では子供は純粋無垢な存在と思われています。しかし、ここでの「子供のように」はそのような意味では使われていません。聖書によれば人は生まれながら罪を負っているというのですから、子供が純粋無垢な存在ではありません。

 それでは「子供のように」とはどのような意味でしょう。今日の説教では子供は無条件に親にすがりつきます。そのように神に無条件により頼むというのです。それをよく表すのが、ルカ福音書18章の箇所です。そこでは「子供」ではなく「乳飲み子」になっています。

 乳飲み子は自分で生きることはできません。ひたすら親に頼ってこそ生きれるのです。乳飲み子のように、ひたすら神により頼む以外に神の国に入ることはできないというのです。

 これまで何度もこの話は聞いたことがありました。しかし、現代日本に生きるおじさんは子供のように純粋にならないとと言う意味で理解していました。しかし、今日の説教を聞いてなるほどと思いました。

 やはり自分なりの聖書理解は危険だと思わされました。明日から世俗の生活です。早速外貨・株式の相場の動きが気になっています。