新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

財産のある者は神の国に行けないのか。

今日は日曜日なので教会です。息子夫婦が帰省していたので、一緒に行きました。息子のお嫁さんは教会に行くのが初めてだったそうです。

 今日は日曜日なので教会ネタ(聖書ネタ)です。いつも書いているように、今礼拝説教は連続してマルコ福音書からです。教会では講解説教と呼びます。

 今日はマルコ福音書10章17節からです。有名な「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」という言葉で有名です。

 聖書になじみのない方のためにこの箇所について簡単に書くと、あるお金持ちの人が神の国に行くにはどうすればよいかイエスに聞きます。

 イエスは聖書の律法(十戒)を守ればよいと言います。この金持ちの人は全て守っていますと答えます。するとイエスはあなたの持っているものを皆売り払って貧しい人に施しなさいといいます。

 するとこの金持ちは顔を曇らせ、悲しみながらかえって行きます。その後イエスは前述した言葉を述べるのです。これは一見したところお金持ちは神の国に行けないように見えます。

 神の国に入るには金持ちであってはならないという教えではないのです。なぜなら、その後誤解した弟子たちは私たちはすべてを捨てイエスに従ったのですから、救われるでしょうと言います。

 イエスは弟子の言葉を肯定しません。ただ私(イエス)と福音のためにすべてを捨てたひとだけが永遠のいのちを得るというのです。

 今日の説教では金持ちであるかどうかが問題なのではなく、何により頼むのかが一番大切なのだというのです。○○をしたから救われるというのではないのです。

 もしある行為なりをしたら救われる(神の国に入るあるいは永遠のいのちを得る)としたら、そのような行為ができない人は救われないことになります。

 例えば断食をすれば救われるとしても、働いている人はそんなことはできません。修行をすれば救われるとしても修行できる人は少ないでしょう。

 また教会に多くの寄付をする人が救われるというのであれば貧しい人は救われないことになります。ここでのイエスの言葉はひたすら神を求める人に対して、神の側から救いがあるというのです。

 よくキリスト教浄土真宗に似ていると言われます。確かに似ているところが多いです。基本的な考え方がそうです。カソリックではなくプロテスタントの考え方に近いです。

 ヨーロッパでは宗教改革プロテスタントが出現しました。日本では鎌倉時代、鎌倉新仏教と呼ばれる古代の仏教から解き放たれた新しい仏教が登場しました。

 浄土真宗では妻帯を認めます。親鸞自ら妻帯しました。ルターが妻帯したのと似ています。当時日本でもヨーロッパでも神父や僧侶が妻帯するなど驚天動地の出来事だったと思います。

 まあかなり強引な解釈ですが、今日の説教からふと思ったことです。明日は息子夫婦も帰京するので、のんびり過ごします。