盲人の癒しー救いを求める姿
今日は日曜日なので教会です。いつものように日曜日は教会ネタ(聖書ネタ)です。いつも書いているように教会ではマルコ福音書の連続説教です。(講解説教ともいいます。)
その中には特定の福音書だけに取り上げられた話題と三つの福音書すべてに取り上げられた話があります。以前書いたように、有名なイエスの誕生の話(クリスマスの話)はマタイとルカ福音書だけで、マルコ福音書にはありません。
それだけ3つの福音書の記者にとって大切な話だったのでしょう。もちろん3つの福音書では微妙に内容が違っています。その中でマルコ福音書だけが盲人の名前を書いています。マタイ福音書では二人の盲人となっており、ルカ福音書ではある盲人となっています。
さて、この話の始まりは盲人がイエスに向かって「私を憐れんでください。」と叫ぶのです。なぜ叫ぶのかというと、イエスの弟子たちが盲人をイエスに近づけようとしないからです。弟子たちは今イエスのエルサレム入場を前にしていました。
弟子たちにとってエルサレム入場は先週の日曜日にブログで書いたように、イエスの王権把握の重要な行事であったのです。先週書いたように弟子たちはイエスが王権を掌握し、自分たちもそれなりの地位(大臣など)につけることを想像していました。
そんな重要な時期に盲人のことなどどうでもよかたのです。それを表すのがマルコ10章48節の「多くの人々が叱りつけて黙らせようとし」たとあります。イエスだけは違っていました。
叫び続ける盲人の言葉にイエスは耳をとめたのです。そして「あの男を呼んできなさい。」と言います。そして盲人の言葉を聞いて盲人をいやします。
その時イエスが言った言葉は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」です。この盲人が救われたのは、救いを求め続ける信仰の結果だというのです。
この盲人はどうだったのでしょう。イエスは「行きなさい。」と言います。目が見えるようになったのなら、これからは自由に生きていきなさいと言ったのです。それまでこの盲人は物乞いをして生きていたのです。
さてこの盲人はどうしたでしょう。「盲人はすぐ、見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」とあります。目が見えるようになり、同時にイエスから(どこでも好きなところに)行きなさいと言われたのに、目が目るようになった時点で願いはかなったのに、彼は進んでイエスに従います。
3つの福音書作者がこの話を取り上げたのは、この盲人の深い信仰に心打たれたからでしょう。喉元過ぎれば熱さを忘れるということわざがあります。
救われるまでは熱心に神に願っても願いがかなえられれば手の平を返したように信仰から離れる人がいます。過去にもたくさんそんな人を見ました。イエスの時代でも同様だったでしょう。その中でこの盲人の信仰に福音書記者も心打たれたのでしょう。