イエスのエルサレム入場ー移ろいやすきは人心(ひとごころ)
今日は日曜日なので教会です。恒例の教会ネタです。ところで中東で殺されたとされる人質の後藤さんはやはり日本キリスト教団の会員でした。
キリスト教と縁の薄い日本ではキリスト教徒以外イエスのエルサレム入場と言いってもほとんど知っている人はいないと思います。欧米ではこの話は皆知っています。ずいぶん昔30年くらい前アメリカの西部劇(ゲリークーパー主演)でこのエルサレム入場を下敷きにした場面を見たことがあります。
西部劇は庶民の娯楽映画です。庶民なら誰でも知っている話でなければ下敷きにできないのです。それは、主人公がある町を目前にした場所での出来事です。主人公が目前の町の名前を聞くとエルサレムと別の人がいうのです。
それはマルコ福音書11章8節以下を読むとよくわかります。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、人々は野原から葉のついた枝を切って来て道に敷いた。」とあります。
よく王侯などのVIPが車から降りて建物に入る時赤じゅうたんを引いたりします。それをイメージすればよいと思います。また人々は歓呼の声を上げてイエス一行を迎えたのです。
イエスがエルサレム入場後の行動については後日書きます。ただ言えることは、歓呼の声を上げ、道に自分の服や切ってきた葉のついた枝(棕櫚だと聞きましたが)を道に敷いてイエスを歓迎した民衆の態度は数日後激変します。
聖書を読むと人間というものが時代を経ても変わらない存在であることがよく分かります。いつも書くように聖なる日曜日は終わり世俗の生活に月曜日から戻ります。