新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

いちじくの木の話ー目からうろこです。

昨日は次女と孫が来たので忙しくてブログを書けませんでした。今日は日曜日なので教会です。日曜日はブログも教会ネタに決めているので今日も教会ネタ(聖書ネタ)で書きます。

 以前から書いているように礼拝説教はマルコ福音書の講解説教です。講解説教というのは、聖書のある部分を最初から順番に説教していくことです。

 以前から今日の説教の聖書箇所の意味が理解できなかったところなので、先週からどのように説教がなされるのか期待していました。

 今日の聖書箇所はマルコ福音書11章12節以下25節までです。今日の箇所は15節から19節までの部分を除いてのことです。15節から19節までは全く別の話なのです。

 ところでタイトルの「いちじくの木」は聖書では「いちじくの木を呪う」「枯れたいちじくの木の教訓」とサブタイトルがついています。

 「いちじくの木を呪う」とは穏やかならないタイトルです。事実イエスは実のならないいちじくの木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がいないように」(14節)と言うのです。

 20節で次の日弟子たちは「あのいちじくの木が枯れているのを見た。」とありますから、イエスの言った通りになったのです。ずいぶんイエスはひどいことをする人ということになります。

 ちょっと意味の理解しがたい箇所だと思われますが、今日の説教ではこの出来事は「印としての出来事」だと言うのです。12節では「イエスは空腹を覚えられた」とありますが、これは切実な求めという意味なのだそうです。

 そしていちじくの木を見ると実が一つもなっていないと言うのです。ここでの「実」は信仰を象徴しているということでした。

 そう考えるとイエスは信仰を求めていたのに信仰がないものがあって、それを否定したということになります。このイチジクの木の話の後半部分は神を信じることの重要性が述べられています。

 「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」とイエスは述べています。これは祈り求められるものは何でも手に入ると言う意味ではありません。

 もし祈れば何でも手に入るとしたら、主体は人間で神は人間の召使になります。宗教では人間が中心でなく神が人間の求めを聞いて、一番ふさわしい形でかなえてくれるのです。

 カソリックの場合、聖人がいろいろいて、願いをかなえてくれる聖人がいます。プロテスタントでは聖人はいません。イエスと自分が直接対話するということになります。

 ただ必死に祈っているのに何の答えもないということはおじさんの場合ありませんでした。教会建設の時お金が切実に必要な時でも、お金を拾うのでも宝くじに当たるのでもなく、たとえば仕事が与えられるという形や思いがけない人からの援助であったりしました。

 神から差し伸べられる救いの手は気を付けてみないと分からないことが多いです。同じ現象であってもそれを偶然だとか当然だとか考えるなら救いの手は分からないでしょう。

 また神は自ら助ける者を助けるとも言います。祈るだけで何もしないなら神と救いの手も差し伸べられないでしょう。日本でも人事を尽くしてえ天命を待つと言います。

 キリスト教の教えもそれに近いものだと思います。ただこれまでの話は全ておじさんの独断と偏見に基づくキリスト教あるいは聖書理解なので、その点だけは誤解なきよう。

 明日からまた世俗の生活に戻ります。アメリカの市場(株式・外貨)の動きを見ると明日の日本の相場も(株式・外貨)注目する必要があります。