新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

権威について

今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今回も説教を聞いて思ったことから書きます。ところで今は教会歴でいう受難節です。

 受難節というのはイエスキリストが捕えられ裁判にかけられて十字架につけられるという受難について思いを致す時なのです。

 受難節はイースタ(復活祭)の前日までです。話は戻りますが、今日の説教は先週日曜日書いた宮清めの続きです。宮清めとはイエスエルサレム神殿で商売をしている人たちの台や腰掛をひっくり返した話です。

 その後、イエスの一行は再び神殿へ戻ってきます。マルコ福音書11章27節には「一行はまたエルサレムに来た」とあります。イエスの一行はエルサレムでなく、近くのベタニアに宿泊していたようです。

 そして境内を歩いていると神殿の指導者層である、祭司長・律法学者・長老がやってきます。そして、昨日のイエスの乱暴狼藉を咎めます。「何の権威で、このようなこと(台や腰掛をひっくり返したこと)をしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と言うのです。

 人が何かをする時、それなりの権限や権威が必要です。警察が人を逮捕できるのは、法律によって権限が与えられています。また、警察は普通、法に従って正しく権限を実行しているので、警察の行為に権威を与えているのです。

 教師の場合でも、法的権限(学校教育法)に従って教育していますが、普通教師の行為を法に基づいてやっていると思う人はいません。教師には法に裏付けられなくても権威があるのです。

 正規の学校でなくても道場の師範はその道について権威があります。そして弟子は皆その権威に従っているのです。

 権限以上に権威というのは大切です。権限は無視することができますが、権威は無視することはできません。普通権限と権威はセットになっています。神殿での商売(鳩を売ったり・両替する)を許可する権限は祭司長などに与えられています。

 祭司長が許可する権限を持つのは神殿の神官の長としての権威があるからです。その権威は祭司長の場合、神から与えられていると思ったのです。

 その権威を無視されたので、イエスの行動の正当性の源である権威について聞いているのです。ここでイエスが自分は神から与えられた権威に従っていると答えたなら、祭司長は自分こそ神から権威を与えられているのだ、お前は神から権威を与えられたなどと詐称している。

 と言って神を騙った偽者だと処罰できます。また、神の権威でなく、個人としての行為だと言えば、勝手に神殿の秩序を乱した者として、処罰できます。

 どう答えても処罰できることばの罠なのです。しかし、イエスはそれに答えないでヨハネについて話題を変えます。ヨハネは当時人気のあった洗礼者でした。

 しかし、ヨハネは反感を買った王によって処刑されます。ヨハネは多くの人に洗礼を授けました。それについて、イエスは洗礼を授けた権威はどこから来るのかと尋ねます。

 もし、天からの権威だと言えば、なぜ天から与えられた権威を持つヨハネを祭司長たち宗教者は助けようとしなかったのか、と問い詰められます。逆に人間の権威だとすると、洗礼を受けた者は単なる水をかけられただけになります。

 ヨハネの洗礼を受けた人は多かったので、人間の権威だと言えば洗礼を受けた人々の反発を受けることになります。それで祭司長は「わからない」と答えます。こう答えるしかなかったのです。

 それを聞いてイエスは祭司長が分からないと言うなら、「わたしも言うまい(答えまい)」といって、権威についての問答を打ち切ります。イエスと祭司長や律法学者との問答はほとんどの場合イエスの上げ足を取ろうとするものです。

 それをうまくイエスが切り返していくところが小気味よいです。もう少し先では有名な神のものは神にカエサルのものはカエサルにという言葉がでてきます。

 これについては後日また書きます。昨日は次女と孫が来ていて忙しくてブログが書けませんでした。