新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ブドウ園主人と悪い農夫のたとえ

昨日は五十肩の治療のため鍼灸院に行っていたので、忙しくてブログが書けませんでした。治療をしてもらったので、少し痛みが取れました。

 さて今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日の説教はマルコ福音書12章以下です。ここではブドウ園の主人が農夫たちに農園の管理を任せたのに、主人がブドウ園の収穫を受け取ろうとしたら、その僕(召使)を袋叩きにして、追い返してしまう話です。

 最後には主人は自分の息子まで送るのですが、農夫たちは、その息子まで殺して、この農園を乗っ取ろうとするのです。イエスは、祭司長たちに、この農園の主人は戻って来てどうするだろうかと質問します。

 戻ってきた主人は「農夫を殺し、ブドウ園をほかの人たちに与えるにちがいない」とイエスははいいます。このたとえは、自分は神(ブドウ園の主人)から遣わされているのに、自分を殺せば神からその報いを受けるだろうと言っているのです。

 それを聞いた祭司長や律法学者、長老たちは「イエスが自分たちにあてつけてこのたとえを話された」と気づきます。そして、イエスをとらえようとするのですが、群衆を恐れてできませんでした。

 仕方なく「イエスをその場に残して立ち去って」行きます。この後も祭司長たちは何とかイエスを言葉の罠にかけて逮捕しようとします。来週はイエスが見事に言葉の罠を逃れる話です。

 ところで、聖書の話は当時の社会をもとに書かれています。今でもそうですが、当時イスラエルではブドウ栽培が盛んで、ブドウから葡萄酒を作ったりしていました。有名なカナの婚礼の時イエスが水を葡萄酒に変える奇跡を起こします。

 ブドウ園の労働者を取り上げた記事もあります。(「ブドウ園の良い主人」)今日の話でも、主人がブドウ園を作った際の記述を見ると「ブドウ園を作り、垣を巡らし、絞り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と極めて具体的に買いています。

 そういえばおじさんの息子の名前を私はぶどうの木、私につながっていなさいと言う聖書の一部とおじさんの名前の一字をとってつけました。

 家にもブドウの木があって、多い時には数十の房が垂れ下がっています。こうして聖なる日曜日が終わって明日から世俗の生活です。取りあえず年初来高値を越えている株式相場の動きが気になります。明日も値上がりして予定の値段を越えたら再度利確をします。