新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

市長の修士論文不合格について

 今日は久しぶりの教育ネタです。株価の方は日経平均が19400円台まで来たようですが、おじさんの持ち株はほとんど上がっていません。

 さて今日のネタですが、下関市の市長が自分の修士論文不合格を不満として裁判を起こしたようです。裁判になじむかと言えば個人の不利益に関することですから裁判にはなじみます。

 却下と言うのは裁判に馴染まない場合に使い、棄却というのは訴えは正当だが取り上げないというものだと法律学の授業で聞いたことがあります。面白い授業を聞けなかったので裁判を起こせませんが、修士号をもらえないというのは修士課程に入学した際修士号を得るのが目的なので、もらえないとすれば不利益になります。

 ところで裁判所はどう判断するかについては予想できます。市長の訴えを棄却すると思います。修士論文を認めるかどうかは大学院の側の裁量に任せられているからです。

 明らかに形式的な不合理が認められれば市長の訴えが認められますが、相手が市長の場合手続き等の瑕疵(かし)があるとは考えられません。

 本人は結構な量修士論文を書いていると主張しています。修士論文においてある程度の内容を書こうとすれば、当然ある程度の量書かねばなりません。

 だからと言って沢山書けばよいと言うものではありません。おじさんも修士論文を書きましたが、修士論文において一番大切なことは論文の書き方が修士論文に相応しいものでなければなりません。

 論文には論文の作法があります。学士論文の場合はそれほどでもありませんが、修士論文ともなれば、きちんと形式を整えて書かねばならないのです。そのため論文の書き方という本があるほどです。おじさんが中国にいた時、修士論文を書く学生さんは日本と同じ形式で書いていました。

 論文はまた客観的なデーターなり論拠を示しながら書かねばならないのです。どうも市長さんは自分の経験や感想また自分の思いを中心に修士論文を書いたようです。

 本人としては、自分の経験こそ一番大切と思ったかもしれませんが、そこに客観的な裏付けつまり論拠がなければ、単なる感想文あるいはエッセイになってしまいます。

 修士論文の場合指導教官が必ずいてその教官の指導の下修士論文を書きます。この市長さんを指導した指導教官は何をしていたのでしょう。市長さんの論文が不合格になったのは、指導教官の指導を無視したからだと思います。

 普通指導教官は審査で不合格になるような修士論文の提出を認めないはずです。指導教官は経験的にその論文が審査で合格するかどうか分かるはずです。指導教官の資格があるのは教授クラスの教官がなります。

 この市長さんが在籍したのはこの市長さんのいる市立大学だったようです。市立大学は今ではほとんど独立行政法人になっているし、そもそも市長といえども市立大学に命令できるものではありません。

 この市長さんは自分の不明を恥じるどころか大学を訴えるなど恥の上塗りです。おまけに今度は別の私立大学に博士論文として認めるよう請求したようです。

 私立大学の返事は博士課程に在学してそののち提出してほしいと言うものでした。選挙で選ばれたらなんでもできるとこの市長さんは思っているのでしょうか。今選挙万能主義が横行しているようです。大阪市長など万能感に満ちているようです。

 折角市長と言う行政の長の経験をしたのですから、指導教官の指導に従って謙虚に論文作成をしたらよかったのにと思います。