教会学校の説教ー十字架のイエスと二人の罪人
今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日は久しぶりに教会学校の説教でした。ツマクマの体調がよくないので教会学校の説教を免除してもらっていましたが、今日はさすがにお願いできずしました。
ピラトは興味深い人物ですが今日は書きません。ピラトによって死刑判決を受けゴルゴダの丘で十字架につけられるのです。その時イエスの他に二人の罪人がいました。罪人がどのような罪を犯したのかこのテキストであるルカ福音書にはありませんが、他の福音書では盗賊となっています。
さてこの二人の罪人は一緒に処刑されるイエスにどのような態度を取ったのでしょう。一人の罪人は「「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と毒づくのです。
この罪人だけでなく、議員たちも「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら自分を救うがよい。」と言うのです。あれほど多くの奇跡を行いながら自分を救うこともできないで、神から選ばれたメシア(救い主)というのは論理矛盾だと言うのです。
当時の人にとってもっともな意見でしょう。だからこそ十字架にいる罪人も同じことを言ったのです。ところがもう一人の罪人は違います。「我々は自分のやったことの報いをうけいているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」と言うのです。
イエスはこの罪人の言葉を聞いてどう思ったでしょう。あなたは罪人で罪を沢山犯しました。いまさらそんなことを言っても遅いですよと言ったのでしょうか。
一方ではこれは都合がよすぎりる。それなら悪いことをずっとして、最後に悔い改めたらいいと言うことになります。これは浄土真宗の名著「歎異抄」の悪人正機説に似ています。この悪人正機説は当時大変な反論を受けました。
歎異抄によれば「善人なおもて往生をとぐ。悪人においてをや。」というのです。善人でさえ往生を遂げることができるのだから悪人の場合なおさらであると言うのです。
悪人には自ら悪を行っているという自覚があります。だからこそ赦しと悔い改めを求めるのです。ところが善人は自ら罪の自覚がないのです。それゆえ悔い改めることがないと言うのでしょう。
それにしてもなかなか奥の深い記事です。自ら罪の自覚がなければ、十字架の罪人に対して調子が良すぎると非難する立場に立つでしょう。
聖書は罪の自覚と悔い改めを求めているのです。今日の話はちょと難しかったかもしれませんね。明日はいよいよ参加国が増加しているAIIB(アジアインフラ投資銀行)について書きます。