新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖書における絶対的価値と相対的価値

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。先週は中国人の留学生が来たので教会をお休みしました。2週間ぶりに教会ネタです。

 今日は聖書における絶対的価値と相対的価値について書きます。ほとんどの宗教は基本的には絶対的価値を重視するのです。

 キリスト教のもとになったユダヤ教の有名な十戒にも私のほか何物をも神としてはならないとあります。今問題になっているイスラム過激派もイスラム以外の宗教を排除します。さらには同じ派でなければ排除します。

 しかし、聖書においては必ずしも排他的な意味での絶対価値ばかりではないのです。ところで絶対的価値がもっともよく分かるのがお宝鑑定団です。この番組では、およそ凡人には価値がないと思われるものに価値がつくのです。

 もちろんこの価値は価値があると信じる人にしか意味がありません。1000万円の価値がある壺でも、ほしいと思はない人には何の価値もないでしょう。

 聖書における絶対的価値は量で測れない価値のことを言います。以前ブドウ園の労働者の話を書いたことがあります。ある労働者は朝からある労働者は昼からある労働者は仕事が終わる直前に主人から雇われました。

 皆働いた後賃金をもらったのに、皆同じ賃金でした。ある労働者が文句を言うと、朝から働いた労働者でも仕事の終わりに来た労働者にも私が同じ賃金を払って文句はないだろうと言うのです。

 この世では多くの時間働いた者は多くの報酬をもらい少ししか働かない者には少ししか報酬がもらえないのです。まさに相対的価値の世界です。

 以前十字架の罪人について書きました。この罪人は罪を犯したうえに処刑される直前に悔い改めたら救いへと至ったのです。

 罪人であるか善人であるか、イエスを信じた期間が長いか短いかではないのです。イエスキリストを一途に信じ信仰を告白することに意味があるのです。

 今日の聖書箇所(マルコ福音書12章41節以下)もそうです。サブタイトルは「やもめの献金」です。この箇所は福音書のうちルカ福音書にしかでていません。残り2つの福音書にはでていない話です。

 イエスは神殿の賽銭箱を見ていました。大勢の金持ちがたくさんお金を入れていました。一方ひとりの貧しいやもめ(未亡人)がレプトン銅貨2枚をいれたのです。今でいえば100円硬貨2枚と言ったところです。

 それを見たイエスは弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」と言うのです。

 金額の多さから言えば金持ちの方が多いのです。今でいえば数万円賽銭箱に入れたと思われます。数万円と200円では相対的価値としては数万円の方が圧倒的に多い金額です。

 しかし、この200円ささげたやもめは「生活費を全部入れた」のです。その人にとって一番大切なものをすべてささげたのです。

 もちろんイエスは皆に同じようにしなさいと言っているのではないでしょう。そうでなく、神を一番大切に思っているのはこのやもめだと言っているのです。

 先述したように、この世は相対的価値つまり計ることのできるものに価値があります。聖書の世界では絶対的価値つまり計ることのできないものに価値があるとするのです。

 この世の価値にどっぷり浸っているおじさんにとって、この絶対的価値を重視する聖書の世界に魅力を感じるのです。そういいつつ月曜日からは世俗の生活に戻ります。

 月曜日からは、株式相場の動向に注目する生活です。