新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

イエスに出会った人々ーキレネ人シモン

 今日は日曜日なので教会です。先々週はツマクマの入院で、先週はツマクマが亡くなってすぐなので教会へ行けませんでした。

 もちろん日曜日の教会ネタでのブログもお休みしていました。今日は少し家も落ち着いたので教会へ行きました。それに教会学校のおじさんの当番の説教もあったので、ぜひ行かなければならなかったのです。

 先日ツマクマのお葬式があったので、教会のお葬式について書こうと思ったのですが、まだ思い出が生々しいのでやめました。

 今日の説教から書きます。今日の説教はイエスが十字架につけられる場面です。マルコ福音書15章21節以下の箇所です。

 ところでイエスに出会った人は大勢います。イエスの側から声をかけた場合もあります。収税人マタイなどがそうです。イエスの弟子たちはそうしてほとんど集められました。

 中には自分からイエスを尋ねた人もいます。議員であった二コデモなどはその例です。今日のタイトルのキレネ人シモンは自分の意志でもイエスの意志でもなく偶然イエスと出会うことになったのです。

 裁判で死刑が決定してからイエスは兵士たちからさんざん侮辱されます。それでイエス疲労困ぱいし、とても重い十字架をかつぐことはできなかったのです。

 そこで兵士たちは、田舎からでてきてちょうど通りかかったキレネ人シモンに十字架を無理に担がせたのです。シモンにとって思いがけないことでした。

 イエスは自分に代わって重い十字架を担がされたシモンをどう見たでしょう。申し訳ない気持ちでシモンを見たに違いありません。

 一方シモンはどのような思いで十字架を担ぎイエスを見たのでしょうか。聖書はこの箇所では何も述べていません。結局シモンはゴルゴダの丘まで十字架を運びイエスはそこで十字架にかかります。

 シモンについては、アレクサンドロスとルフォスとの父と書かれています。単にキレネ人シモンでなく、その子供のことまで固有名詞で書かれているのです。

 今日の説教ではルフォスが聖書の別の箇所に登場するそうです。つまり、イエスと偶然の出会いをしたシモンの子供はイエスを信じるものとなったのです。

 イエスとの出会いの仕方は偶然それも重荷になるようなことであっても、その結果イエスを信じる者になったりするのです。おじさんもなぜこのシモンの話が取り上げられているのか不思議でしたが、今日の説教を聞いて納得できました。

 明日からはいつも書いているように世俗の生活です。月曜日は相場はお休みですが、株式相場がこのまま値上がりを続けるのか注目されます。