新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

給食の思い出―団塊の世代

 今朝日新聞では給食の思い出が取り上げられています。日本の小学校は全て給食なので、戦後生まれの人(一部戦前生まれの人も)は皆給食の思い出があるはずです。

 おじさんたち団塊の世代は給食の話をすれば全員盛り上がってきます。おじさんたち団塊の世代の給食に関する共通意見は脱脂粉乳が恐ろしくまずかったことです。

 この話をすればどんな人でも皆乗ってきます。もちろんおじさんも脱脂粉乳が大嫌いでした。思い出してみると、確かほんのわずかですが、脱脂粉乳が好きな人もいたような気がします。

 脱脂粉乳は紙のドラム缶のようなものに入っていました。うろ覚えですが、日本とアメリカの子供が握手している絵が描かれていたような気がします。

 アメリカの援助で日本の子供が飢えないように提供されたのだとも聞きました。別の友達はアメリカでは脱脂粉乳は豚のえさだとも言っていました。笑い話ですが、あのまずい脱脂粉乳を飲まされたので団塊の世代は反米となり大学紛争を起こしたのだという珍説を述べる者もいたほどです。

 おじさんはこのまずい脱脂粉乳を鼻をつまんでまず飲みました。次はおかずです。おじさんは好き嫌いが当時はげしく食べれないおかずが多かったです。

 好きなのはつみれ汁とか魚のフライです。時々なぜかぜんざいが出ていました。これは大好物でした。一番嫌いなのが豚の脂身とジャガイモを煮たものでした。

 豚の脂身はぬるぬるしてとても気持ちが悪かったです。今でもそうだと思いますが、給食を全部食べないと遊びにいけないので、我慢して噛まずに飲み込んでいました。

 吐き気がしたほどこの豚の脂身は嫌いでした。一番好きだったのがパンです。戦後だいぶたった頃は袋に入った食パンだったようですが、おじさんの頃は近くのパン屋さんが毎日昼食時に合わせて焼いてきていました。

 パンが置いてある部屋に入るとパンの熱気でむっとするほどでした。冬などその部屋に入るとぽかぽか暖かかったです。

 パン屋のおじさんも子供達が食べるのですから、心をこめて焼いていたと思います。焼きたてのコッペパンで、まわりがこんがり焦げていて本当においしかったです。

 脱脂粉乳とおかずは全て食べないといけないのですが、食の細い子はパンを全部食べれないので、パンを残すのは許されていました。それでおじさんはどうしても食べれないおかずをパンの中に入れてもってかえっていました。

 家で捨てると親から怒られるので、鞄の中に入れたままにして、パンがかちかちになったこともあります。中学になると牛乳だけが配られました。

 弁当が中心で弁当のない子はパンを買っていました。おじさんは贅沢にも冷たいご飯が嫌いなので、年に数回しか弁当を持って行きませんでした。いつもパンを売店で買って食べていました。

 時々おこずかいが不足すると2個食べるパンを1個にして節約していました。おかげで今でも痩せています。子供の頃節約せずがんがん食べていたら良かったのかもしれません。

 昭和29年に小学校に入学しました。まだまだ日本が貧しかった時代の話です。明日は久しぶりに友人のミヤジイと会います。