イエスの死ー4福音書比較
今日は日曜日なので教会です。日曜日恒例の教会ネタです。マルコ福音書もいよいよ終わりが近づいてきました。今日の聖書箇所はマルコ福音書15章33節以下からです。
ところが共観福音書と言われるマタイ・マルコ・ルカ福音書のうちルカ福音書がちょっと異なっています。それはイエスとともに十字架にかけられた二人の罪人です。マタイ・マルコ福音書ともこの二人の罪人についてはちょっと触れる程度です。
そしてこの二人の罪人の生き方がキリスト者にとって大きな福音でもあるのです。ある罪人は「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみろ」と言うのです。
ところがもう一人の罪人は「お前は神を恐れないのか」といい「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」と言ってイエスを侮辱した罪人をたしなめます。
イエスは何と答えたでしょう。今頃後悔しても遅いと言ったのでしょうか。また今頃救ってくれとは調子がいいぞと言ったのでしょうか。イエスの答えは「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言うものでした。
さてマタイ・福音書にあって、ヨハネ・ルカ福音書にないのが、イエスの最後の言葉です。ルカでは「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取りますし、ヨハネ福音書では「成し遂げられた」と言って息を引き取るのです。
しかし、これは間違いです。この言葉は有名な詩編22編の言葉で、この言葉は義人の祈りとも言われています。神が見捨てたと思われる時でも神を信頼する言葉なのです。
イエスの言った言葉の後には「助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたにより頼んで裏切られたことはない」と続くのです。イエスの言葉はその部分がないのですが、詩編22編全体の意味はどんな時でも神は裏切らないというものなのです。イエスは私は何も悪いことはしていないが、処刑されます、それでも神を信頼していますと言いたかったのです。
これは神を人間を隔てていたものがなくなり、神と人間が自由に交流できるようになったことの象徴であるとされます。それまで神と人間は幕で隔てられ祭司の仲介がなければ神と人間は交流できなかったのです。
それが直接人間が神に呼びかけることができるようになった象徴的な出来事なのです。また十字架のそばにいたローマの百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と信仰告白をします。
敗戦後いかに旧満州で引き上げるまで苦労したか平和がいかに大切かを話されました。以前同僚でやはり満州から引き揚げられた方がいました。今日の話と共通していたのは、敗戦がわかる前にすでに関東軍の上層部は皆逃げて、庶民と下っ端の兵士だけが残されたことです。
日本最強を歌われた関東軍も結局はそんなものだったのでしょう。旧軍を賛美される方もありますが、実体験をされた方の話には説得力があります。
祈祷会でこの話をされた方は満州ではお父さんは病院の院長をされていたそうです。それが一夜にしてすべてを失いお父様は逮捕され処刑されたそうです。
明日は相続関係の手続きで司法書士のところに行きます。