新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

平和主日礼拝がありました。

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタで書きます。今日は平和主日礼拝でした。日本キリスト教団では今日を平和についての説教を行う日と決めているようです。

 日本キリスト教団は戦争中キリスト教それもプロテスタントの各教派を統合してできたのです。戦時中は政府に協力をしました。そのため戦後になって「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という文書を1967年に脱しました。

 俗に戦責告白を言われるものです。教会によってはこの戦責告白を重視するところもありますが、おじさんの教会では平和につての教えの説教をするだけです。

 今日の説教は「平和の王」と言う題でなされました。イザヤ書11節1~10節のところです。クリスマスなどでも取り上げられる有名な箇所です。

 平和をもたらすイエスキリストの預言としても有名なところです。平和と言うと人々が戦争を回避する努力をすれば成し遂げられると考えられています。

 しかし、聖書特にイザヤ書では平和な状態は大地が「主を知る知識で満たされる」時にくると言うのです。聖書の有名な言葉に「主を怖れることは知識の始まりである。」と言うのがあります。

 主を怖れることのない知識は大変な災厄を人間にもたらすのです。核兵器がその最たるものでしょう。原発技術も人間がどこまでコントロールできるのでしょうか。

 現代社会では主なる神という概念が失われつつあります。主なる神がなければ人間にとって怖れるものはありません。

 主なる神を取り払えば残るのは人間だけです。人間以上の存在はないと言うことになります。一方では主なる神の名前を乱用するイスラム過激派のような集団もあります。

 主なる神をなくした近代科学文明は逆に極端に主なる神を乱用する多くの集団を作り出したようです。主なる神を抹殺しようとした共産主義国家で崩壊後信仰者が激増していると言います。

 ロシアもそうですし、中国などもそうです。中国は仏教国ですが、お寺に行くと若い女性や若い家族連れが大勢熱心に拝んでいます。お寺には納骨堂もあります。

 中国では教会も結構あります。おじさんが行っていた繁華街の教会では10時半からの礼拝に600人くらいの人が来ていました。毎回20人くらいの新来者がありました。(前に出て紹介するので分かります。)

 平和をもたらすのはやはり信仰だと思います。人間の力だけでは難しいでしょう。しかし、信仰も時に争いを起こすので困ったものです。

 日本では宗教戦争は江戸時代の島原の乱で終わりましたが世界中では宗教戦争は絶えません。平和問題はなかなか難しいものです。

 明日からは世俗の生活です。ツマクマの入院診断書を取りに行って生保に送ると生保関係の事務処理が終わります。それが終わると不動産所有権移転登記に移ります。まだまだツマクマの死後の事務処理が続きます。