新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

イエス墓に葬られる

 今日は日曜日なので教会に行きました。日曜日は教会ネタに決めているので、今日も書きます。今日の聖書箇所はマルコ福音書15章42節からです。

 イエスが十字架にかけれら死んで葬られるところです。いつも書いている通り4福音書の比較をしてみましょう。内容的には、ほぼどの福音書も同じなのですが、共観福音書ヨハネ福音書ではこの場面でも異なっています。

 実はイエスの遺体は十字架にかかったままでした。罪人として処刑されたのですから、どこの国でも勝手に遺族なりが降ろして葬るわけには行きません。

 十字架にかかったままにしておくことにも刑罰の意味があったのです。イエスの場合も同様でした。しかし、イエスの場合は違っていました。マルコ福音書によれば「アリマタヤの出身で身分の高い議員ヨセフ」がイエスの遺骸を葬ることを総督ピラトに願い出たのです。

 それについて聖書は「勇気を出してピラトのところに行き」と書いています。罪人として処刑されたイエスを葬ることはこの議員ヨセフも仲間だとみられる可能性があったのです。しかし、このヨセフは「神の国を待ち望んでいた」つまりイエスの言葉を信じていたからこそ勇気を出すことができたのです。

 勇敢な行為です。おじさんは洗礼を受けて来年で50年になりますが、今日までこの「勇気をだして」の一言に気づきませんでした。長い間イエスに弟子としてつかえて来た者たちはペテロを筆頭に皆逃げ出していたのにです。

 聖書はさりげない言葉に大きな意味を持たせているのです。さて、ヨセフの申し出を受けたピラトはどうしたでしょうか。ピラトの心境を聖書は「イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い」と述べています。

 ピラトにしたら、不思議な力を持ち、さまざまな奇跡を起こしたイエスがあっさり十字架にかかって死ぬなど信じられなかったのでしょう。

 ピラトは部下の百人隊長に事実を確かめます。この百人隊長はイエスの死に立ち会った人です。「本当にこの人は神の子だった。」と叫んだあの人です。

 もちろん百人隊長はイエスの死を確かめていたので、その通り答えました。ピラトは「遺体をヨセフに下げ渡した」のです。

 ヨセフは亜麻布を買いその布で巻きました。その時イエスの顔と体が亜麻布に写ったと言われるのが聖骸布なのです。日本ではこの聖書箇所が知られていないので、聖骸布の言われが半分くらいしか理解できていないでしょう。

 西洋ではイエスの遺骸を亜麻布で覆ったという聖書箇所は誰でも知っているので、あの聖骸布が話題になるのです。

 そして岩を掘って作った墓にイエスを安置して入り口に石を転がしておくのです。その石が翌日取り除かれていたというのが復活の話なのです。

 ところでヨハネ福音書だけ違ったところがあると書きましたが、それはヨハネ福音書19章39節の部分です。そこでは二コデモと言う人が「没薬と沈香をまぜたものを100リトラばかりもって来た」のです。

 二コデモも議員でした。以前イエスのところを夜訪ねて行ったことのある人です。「彼らはイエスの遺体を受け取り」とありますから、ヨセフと二コデモの二人がイエスを葬ったことになります。

 共観福音書では二コデモのことは一切でてきません。これもなぜなのか興味深いことです。共観福音書ヨハネ福音書は参考にした資料が異なると言われています。

 ヨハネ福音書は共観福音書とは別の資料を参考にして福音書を完成させたことが良く分かります。今日の説教で一番印象に残ったのは「勇気を出して」の一言です。

 どの時代でも地位も名誉もある人が信念のために勇気を出して行動することは難しいことなのです。アリマタヤのヨセフは勇気ある行動によって永遠の名誉を得ることができました。

 一方ピラトは勇気が出せず、イエスが無実と知りながら大勢に押されてイエスを処刑しその悪名を永遠に残すことになりました。使徒信条では「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」とあります。

 使徒信条は今でも世界中の教会で唱えられています。(もちろん中国でも)一人は悪名を残し、一人は永遠にその勇気を称賛されるのです。まさに「人死して名を残す」です。

 明日から世俗の生活です。取りあえずの関心はアメリカの金利引き上げが9月に実施されるかどうかです。