新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

今日は終戦記念日です。-戦争が終わって生まれました。

 今日は終戦記念日です。おじさんは戦争が終わって3年して生まれたので戦争を直接知りません。ただ戦争の痕跡はあちこりに残っていました。

 おじさんの父親は終戦時九州にいたそうです。アメリカ軍の上陸に備えて海岸防備をしていたようです。父親は工兵だったようです。おじさんが子供の頃工兵の工と名前が書かれた飯盒がありました。

 またなぜか縁側から庭に出る踏み台は弾薬箱と書かれていました。父親の終戦時の階級は兵長ですから、たいしたことはなかったと思います。旧制の商業学校卒業だと聞いていたので、志願すれば幹部候補生になれたのでしょうが、そんな気もなかったようです。

 戦後某鉄鋼会社の営業マンとして活躍したような人なのでおよそ戦争で頑張ろうという気はなかったようです。父親の弟さんは衛生兵で准尉まで行ったそうです。

 おじさんの結婚式の時、同席した担任がその叔父さんに戦争の時の階級を聞いて准尉だと知ると感心していました。おじさんの担任は学徒動員で予備士官になり、終戦時少尉で終わったのです。

 俗にポツダム少尉と呼ばれていました。准尉は少尉の下ですが、兵隊の神様と呼ばれるほどの人なのです。簡単に言うと2等兵から始まったら准尉が最高の出世なのです。

 衛生兵は比較的優秀な人がなったようです。もし無能な人間が衛生兵になったら、怪我をしたとき困るからです。母親の話ではこの叔父さんは病院船にも乗っていたようです。

 真面目な上に温厚な性格でその点軍もよく人を見ていると思いました。別の叔父さんはサイパン島で玉砕したそうです。おじさんが子供の頃本家に行くと遺族の家というプレートがはってありました。

 後にこの話を聞いて納得しました。おじさんの母親は疎開をしていたので空襲などには合わなかったようです。おじさんが子供頃傷痍軍人を言われる人が街角や駅前にいました。

 傷痍軍人というのは白い衣服を着てもの悲しげな音楽奏でてお金をもらうのです。本当は戦争でけがをしたのではない人も多いと聞きましたが、胸が締め付けれるような思いがしました。

 中国に居た時盲目の人が音楽を奏でてお金をめぐんでもらっているのを見た時昔見た傷痍軍人を思い出しました。中国では物乞いが多いのですがほとんどは商売でやっているようです。

 それでも商売が成り立つのはお金をめぐんでくれる人がいるからでしょう。中国人は他人に冷たいようですが、もし本当に皆冷たければ物乞いは成り立たないのです。

 ある時繁華街で人だかりがしていました。こちらは本当に病気でお金がない人だったようです。小銭(1元札・・日本の100円硬貨の感覚)が山のように積みあがっていました。

 さすがに他人にクールな中国人でも、本当に困っている人にはちゃんと施しをするようです。もちろんおじさんも5元上げました。

 話はそれましたが、戦争遺跡としてあちこちに防空壕が残っていました。危ないから入ってはいけないと言われました。おじさんの思い出はどちらかと言うと戦後の駐留軍です。

 おじさんの町の繁華街のど真ん中から歩いて10分くらいのところに米軍の基地がありました。おじさんの町にあったデパートの屋上からは星条旗が見えました。

 米軍が使っていたハーシーのチョコレートがデパートで売っていました。今はありませんが、懐かしい思い出です。おじさんの家の近くの国道は米軍のジープが良く通りのでジープ道路と呼ばれていました。

 安倍さんはおじさんたちより後に生まれたのですでに戦争のにおいが残っていなかったのでしょう。そうでなければ再び戦争を始めようと言うような法案を考えるはずもありません。

 明日は日曜日なので教会です。その後おじさんが以前勤務した高校の同窓会へ行きます。当時の教え子もすでに50代半ばになりました。ブログはお休みです。