新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

初めに神は天地を創造された。-今日の説教から

 先週は牧師が休暇なのでおじさんが説教をしましたが、今日は牧師も戻り通常の説教になりました。先月までマルコ福音書の講解説教(初めから順番に説教すること)でしたが、今日から創世記の説教になりました。

 創世記は50章にも及ぶので説教をするのも大変だと思います。おじさんも以前創世記で説教をしたことがあります。ところで今日は1章1節からです。「初めに神は天地を創造された」というのが聖書の一番最初の書き出しです。

 これは現代の自然科学の知識に基づくものではありません。アメリカのキリスト教原理主義の人の中には進化論を否定する人もいるそうですが、宗教的世界と自然科学的世界が異なることは当然です。

 キリスト教だけでなく、ユダヤ教でも世界は神が作ったと考えています。それは一つの世界観です。まず人間が存在する前に神がいたというのです。

 神は天地や人間に先んじて存在したのです。神が作った天地は最初混沌としていたとあります。神が統治しない世界は混とんとしており「闇が深淵の面にあり」と続きます。

 イスラム国の世界がまさにこのような世界なのでしょう。人々は混とんとし、闇の世界に生きているのです。彼らの世界には神がいないのでしょう。必ず歴史はこのような連中を裁きます。

 さて、旧約聖書によればこのような混とんとし、闇の世界に向かって神は「光あれ」と宣言します。この宣言によって世界は救われるのです。聖書では「神は光を見て、良しとされた」とあります。

 これとよく似た記述が新約聖書にあります。ヨハネ福音書です。ヨハネ福音書では1章1節で「初めに言があった。」とします。新約の世界ではすでに救い主の誕生が預言されていたのです。

 そしてその言は「神であった」とまで言います。日本では言葉より心の方が重い物とされます。言葉じゃないよ心だよと言ったところです。

 しかし、キリスト教では言葉つまり聖書に書かれたことが一番大切なのです。イエスの誕生はすでに旧約聖書の時代に予言さており、その予言が実現したというのがキリスト教の世界観なのです。

 旧約聖書の創世記1章とヨハネ福音書の1章1節~5節を比較してみるとおもしろいと思います。全てを支配する神という世界観を持つと人生が変わってきます。

 人間こそがすべてを支配すると考えるのとは180度異なるのです。現代人にはなかなか受け入れがたいと思いますが、そんな考えもあるのだと思ってもらえれば結構です。

 明日からまた世俗の生活が待っています。明日の株式相場がどうなるか注目されます。