新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

子供祝福式がありました。

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日は子供祝福式がありました。以前は幼児祝福式と言っていましたが、小学校の子供もいるので子供に変えたのです。

 内容は礼拝の中に特別の子供祝福式という項目を設けて牧師さんが子供を祝福し、その後子供の讃美歌を歌います。説教の後です。子供は全部で10人くらい来ました。

 おじさんの子供達も幼児祝福式に出たものです。また、子供が生まれてすぐにも祝福式をしてもらいました。幼児洗礼とはちがって、牧師さんから祝福をしてもらうのです。

 この子供祝福式の根拠は聖書でイエスが子供達を祝福したことによります。マルコ・マタイ・ルカの福音書に出ています。今日はルカ福音書からの引用でした。

 ルカ福音書18章15節以下の記事です。まず「イエスにふれていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。」とあります。親としては子供が元気に育つように、不思議な力のあるイエスに振れてもらいたいと思ったのでしょう。

 今でも子供の無事な成長を願って神社にお参りに行きます。当時の人も同様です。特に時代が遡るほと子供が大人になるまで多く死んだからです。

 それに対して弟子たちは「これを見て叱った」とあります。イエス様は人々を救うのに忙しい時に子供まで連れて来るなと言うのでしょう。また子供など邪魔だと言うのでしょう。

 それに対してイエスは「子供達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」と言います。今でこそ子供はかわいくて大事な存在ですが、近世くらいまでは子供は手のかかる存在としてしか見られませんでした。

 日本のように、古代から子供をかわいがる国は少ないのです。子供が大人のミニチュア版としてでなく、保護し可愛がらなければならないと考えられたのは近代初期です。

 有名なアリエスの「子供の誕生」という本がそのことについて書いています。子供という特別な存在は近代になって誕生したのだと言うのです。

 子供が軽く扱われた古代イスラエルにあって、イエスは「神の国はこのようなものたちのものである。」と断言するのです。

 それだけでなく「はっきり言っておく。」と強調する言葉、あるいは重要なことを語る際用いられる表現を使います。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言うのです。

 子供のように素直で純真な心が信仰を持つのに必要だと言うのでしょう。聖書の世界では、子供や婦人と言った現代以前において軽く扱われた存在を重視します。

 現代では男女は平等な存在として扱われますが、イエスの時代はそうでなかったでしょう。また子供は邪魔な存在、手がかかるだけの存在と思われていたのに、イエスは全く反対の行動をとります。

 聖書を読むたびにいろいろなことを考えさせられます。明日は不動産登記のための申請書作りに励みます。うまくいけば良いのですが。火曜日に申請に行きます。