新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「一粒の麦」のたとえ

 今日は日曜日なので恒例の聖書ネタです。今日は先日おじさんが教会学校で話したことについて書きます。聖書箇所でいえばヨハネ福音書12章の12節以下です。

 聖書のタイトルは「ギリシャ人、イエスに会いに来る」となっています。発端はイエスの評判を聞いたギリシャ人がイエスに会わせてほしいと弟子の一人に頼んだことから始まります。

 イエスはこの話を弟子から聞いて、会うとか会わないと言った返事でなく、別のことを言います。弟子たちが言ったギリシャ人が会いたいという内容とイエスの答えとはうまくつながりません。

 聖書知識に欠けるおじさんとしては、弟子の質問とイエスの答えとの間のギャップはうまく説明できません。ただ、イエスの答えを独立して考えるとなかなか奥深いものがあります。

 イエスの答えは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と言うものです。ここからあの有名なアンドレジードの「一粒の麦もし死なば」と言う小説の題名ができたのです。

 その後に続いてイエスは「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠のいのちに至る。」と言うのです。

 まさに逆説的表現です。普通であれば、自分の命を大事にする人が命を全うし、自分の命を憎む人は命を失うということになるのです。

 おじさんも一粒の麦もし死なばという言葉を聞いた時、大学生の頃でしたが、受け入れにくいと思いました。なにより命が大切なのではないかと思ったからです。

 この言葉は歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、悪人においてをや」と言う言葉にも通じます。よく考えてみれば、日本のことわざに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言います。

 一粒の麦にしても、自分に固執すれば、それで終わりです。しかし、一旦自分を捨ててみれば、後になって多くの実を結ぶのです。

 聖書の言葉は一見逆説に満ちているようですが、深く考えてみるとその真理が見えてきます。明日は学校で忙しいのでブログはお休みです。