新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

50代をどう過ごすーおじさんの経験から

 今日は午前中専門学校の試験監督でした。午後からはフリータイムで繁華街で過ごしました。帰りのバスで元の同僚に会いました。この同僚はおじさんと違って出世コースを歩み、教員の最高ポストである教育庁の理事までなった人です。

 理事と言うのは会社でいえば副社長のようなものです。教育長は行政か文科省天下りポストです。教育長を補佐するのが教育次長で、これも行政のポストです。それと同格の教員の最高ポストが理事なのです。

 と言っても理事のまま退職する人は少なくほとんどは校長に戻って退職です。その同僚は50代は管理職コースをまっしぐらで、定年後は某私立通信制の高校の校長をしていました。

 ところで、バブル世代もそろそろ50代にさしかかっていると思います。今67才になって50代を振り返ると、50代がいかに大事であったかを思い出します。

 40代までは20代についた仕事の延長です。ところが50代というのは、定年後をどう生きるかの準備期間なのです。おじさんの今の生活も50代の上に成り立っています。50代の頃準備したものが今生きているのです。

 もちろん、定年後今勤務しているところに65才まで継続雇用してもらって65才からは悠々自適と言うのもありです。おじさんの場合、定年までの人生は家族のために使って定年後の人生はく別の人生を歩もうと思いました。

 50代と言うのは子供も大きくなって手がかからなくなっているのです。もちろん、遅く結婚すれば、子供もまだ中学生くらいと言う場合もあるでしょう。それでも中学生くらいになれば、親の手はそれほどかかりません。

 50代でまずおじさんがしたのは、学び直しです。それまで我流で論文を書いたり、研究のまねごとをしましたが、本格的に学びなおそうと思ったのです。以前は大学院は昼間だけでした。

 ところが、おじさんが50代になった頃は、夜間だけで修了できるようになっていたのです。それで、2年間大学院に行きました。仕事が終わってからなので、毎回遅刻です。それでも、教官は分かっているので何も言いませんでした。

 修士論文を書くのが大変でした。2年目の夏休みは調査に出かけました。その点現役の教師は優遇されています。教育行政学が専門だったので、近隣の教育委員会に調査に行きました。

 どこの教育委員会も快く調査に応じてくれました。コピー機を無料で使わせてくれたり、部屋を提供してくれたり、中には事務職員に資料のコピーをすべてやらせて、おじさんは待つだけの委員会もありました。

 と言っても修士論文は自分で書かなければならないのです。秋の頃には休日は一日中論文を書いていました。無事修了できてうれしいです。先生の勧めでその大学の紀要に同じ研究室の同級生と共同で執筆した論文を掲載させてもらいました。

 53才から55才の頃です。いよいよ定年直前の59才になって日本語教師養成講座に通いました。これは定年後海外で働くためです。

 この講座も楽しかったです。こうして、定年後には修士の学位と日本語教師の資格が活きました。中国の大学で日本語を教えられたのも修士の学位と日本語教師の資格があったからです。修士の学位のおかげで、給料を沢山もらいました。

 帰国後特殊法人立の専門学校で働けたのも修士の学位があったからです。今の専門学校も日本語教師の資格と国語教師の経験が活きています。

 67才で新規に就職活動しても、普通であれば仕事は見つからないでしょう。それが、50代の準備のおかげで、今の働くことができています。

 と言ってもこの年でやんちゃなベトナム人やネパール人相手に頑張るのは疲れます。来年からは70代に向けてのんびり過ごそうと思っています。

 明日とあさっては忙しいのでまたブログはお休みです。