受胎告知ーイエス誕生の予告とマリアの信仰
今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。教会歴でいえば今は待降節です。厳密に言うと待降節第三主日で待降節の最後なのです。つまり来週がクリスマスなのです。
おじさんの好きな待降の讃美歌は94番です。最初にこの讃美歌を聞いた時、とてもきれいな曲だと思いました。あとで調べてみると、12世紀の聖歌でした。確かグレゴリオ聖歌の一つだと思います。
今日は有名な受胎告知の場面です。昨日「美の巨人たち」でダビンチの「受胎告知」について取り上げていました。西洋絵画では、何人もの画家が受胎告知の絵を描いています。それほど有名な箇所なのです。
ルカ福音書1章26節~38節までの部分です。聖書の言葉だけ読んでも実にドラマチックなのです。もちろん天使が実在するかどうかを言えば難しい問題になります。
しかし、天使の実在を別にすれば、信仰のあり方をよく表した部分です。キリスト者でない方でも先述の箇所を読んでもらえれば、それが良く分かります。
簡単に言えば人生の不条理をどう受け入れるかです。聖書の箇所に沿って言えば、天使はマリアを祝福する言葉をまず言います。「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられる。」という言葉です。
普通おめでとうという言葉は良いことが起こった時に使うものです。しかし、マリアには天使が自分を祝福する意味が分かりません。自分は天使に祝福されるようなことはしていないからです。
そこでマリアは「この言葉にとまどい一体この挨拶は何のことかと考え」こんでしまいます。これは人間なら普通の反応でしょう。この人は何を言っているのだろうと困惑するのです。
それに対して天使はマリアがショックを受けるようなことを言うのです。何と「あなたは身ごもって男の子を産む」と言うのです。もちろん天使はマリアがショックを受けることは十分承知していました。それで、妊娠を告げる前振りとして、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と言うのです。
「怖れることはない」と天使に言われてもマリアにとって未婚の母となることは大変な出来事なのです。今でも未婚の母は大変なのに、マリアはすでにヨセフという人と婚約していたのです。
下手をすれば、石打の刑にされて死ぬかもしれないのです。当然マリアは天使に反論します。「どうしてそのようなことがありえましょう。私は男の人を知りませんのに」と言うのです。
マリアにしてみれば、たとえ生まれてくる子が「偉大な人と」なると言われても納得できなかったのです。なぜ自分がそんな大変な重荷を背負うことになるのか。まさに不条理な出来事なのです。
人間の考えでは不条理であっても神はどのようなことでもできると天使は言うのです。「神にできないことは何一つない」というのが天使の論理なのです。
つまり今から2000年近い昔、イスラエルの少女マリアの上に「聖霊が下り、いと高き方の力が」マリアを包むというのです。なぜ、この時代の、この場所の、この少女にこのようなことが起こったのかは神様だけが知っている計画なのです。
さて、このような不条理をマリアはどう受け止めたのでしょうか。人はなぜ自分がこのような不条理なめに会うのかと思った時どのような態度に出るでしょうか。怒り狂うのか、絶望的な気持ちになるのか、こんな運命を与えた神を呪うのか。
マリアは最後に「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えるのです。つまり、この不条理を自ら神の定めたとおりに受け入れるのです。
自らを「主のはしため」、つまり神様の女奴隷とまで言うのです。奴隷は全ての運命を主人にゆだねと生きていきます。マリアも自らの運命を主にゆだねようとするのです。
事実この後の聖書記事を見るとマリアはイエスの最後の時まで行動をともにします。この記事の後に有名な「マリアの賛歌」と呼ばれるマリアの詩が続きます。
マルチンルターの著作だったと思うのですが、「マリアの賛歌」という題の本を出しています。おじさんが大学生の時読みました。確か岩波文庫だったと思います。今は絶版になっているでしょう。その時も多分古本で手に入れたと思います。
マリアの信仰を今日の説教で聞いた時なるほどマリアの信仰は本物だと思いました。来週はクリスマスです。明日はまた授業で遅くなるのでブログはお休みです。授業は21日まであります。