「最後の晩餐」での会話
今日は今年度最初の礼拝がありました。今日は礼拝前のジュニアチャーチでの説教から書きます。今日の説教の聖書箇所はヨハネ福音書13章31節以下ですが、実はその前の21節からの方が興味深いのです。
21節以下のサブタイトルは「裏切りの予告」です。有名なレオナルドダビンチの「最後の晩餐」の絵は良く知られています。おじさんが行っていた中国の教会のロビーの壁面にも飾られていました。
ところで、あの場面はイエスがこの中に裏切り者がいると宣言した時の弟子たちの姿を描いたものです。その時の会話についてはご存じない方も多いと思います。
そこで今日はあの場面の会話を聖書に従って再現してみましょう。映画や芝居の一場面を見て居るようにリアルな会話が続きます。聖書をどう読むかは人によっていろいろです。聖典として読むのが一番正しいのですが、物語して読んでも極めて文学性の高いものです。特にこれからの場面はそうです。
イエスはまず「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と宣言するのです。その時の弟子たちの動揺した姿をダビンチは「最後の晩餐」に描いたのです。
イエスの言葉を聞いた時の様子を聖書は「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見あわせた。」と書いています。
目の前で裏切り者はおまえだと指摘されたのです。ところでユダはイエスの与えたパン切れをどうしたのでしょう。聖書は「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」と書きます。
「サタンが彼の中に入った」と言うのは極めて文学的な表現です。これが「ユダは裏切りを決意した」では余りに平凡です。
イエスはユダを裏切りを知りながら、裏切りの決断をユダにゆだねるのです。こんなやりとりがあっても、他の弟子たちは何のことか分からなかったのです。
普通財布は最も信頼のおける人間に預けます。つまり、弟子たちの間でもユダは信頼できる人間でかつ計算の明るい者であったのです。
「ユダはパン切れを受け取るとすぐ出て行き」ます。ユダが出た外の世界を聖書は「夜であった」と書きます。ユダの裏切り、その心を象徴する夜の闇、実に文学的な表現です。
この記述は他の3つの福音書にはありません。英語の聖書では「IT WAS DARK」となっています。「NIGHT]ではないのです。「外は闇であった」という訳になります。
「夜」より「闇」の方がより文学的な気がします。最後の晩餐の会話は実にドラマチックなのです。映画であれば、大きな見せ場とでも言うところでしょう。
明日は久しぶりののんびり過ごすつもりです。