新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

神様に値引きを要求する話

 今日は日曜日なので教会ネタです。そういえば、今日は久しぶりにツマクマのお墓詣りに行ってきました。今日は朝から風が強かったので、風が収まったら行こうと思いました。午後風が落ち着いたので行きました。

 今日は壮年会があって昼食が出るました。それで午後食事に行かなくていいし、年初に行ったきりなのでお墓参りに行ったのです。

 先日ある方の記念会(日本で言う法事のようなもの)があったせいか、お花がお墓にいけてありました。さて今日は聖書ネタです。

 創世記18章16節からです。先週はアブラハムのところに神の使いが来て、彼に男の子が生まれると告げる話です。彼はそれを聞いてつい笑ってしまう話です。

 神様の言うことを聞いて笑うとは失礼な話ですが、こんな話が聖書のような聖なる書物にでているのも面白い話です。

 今日はアブラハムが神様に値引きを要求する話です。神はアブラハムに、自分はソドムとゴモラの町を滅ぼすと言うのです。アブラハムは何とかソドムとゴモラの町を救うべく努力するのです。

 アブラハムは巧みな論理を展開します。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目にあわせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。」とまず言うのです。

 神は町を滅ぼすと言われるのですが、アブラハムは町には正しい者と悪い者が共存していると言うのです。神が絶対善の存在であるなら、善なる者と悪しきものと一緒に滅ぼせば絶対善という立場に矛盾するのです。

 神は矛盾する存在であってはならないのです。それをアブラハムは「全世界を裁くお方は、正義をおこなわれるべきではありませんか。」と言うのです。

 つまり、正しい者を悪しき者と一緒に裁くのは正しいことを行うよう勧める神の存在と矛盾するというのです。アブラハムは取りあえず、50人この町に正しい人がいたらどうですかと神にもちかけます。

 神は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、そのものたちのために、町全体を赦そう」と言うのです。この言質を得たアブラハムは「五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。」その時はどうでしょうと言います。

 もちろんこんな失礼なことを神様に言うのですからアブラハムはできるだけ自分を卑下した言い方をするのです。自分のことを「塵あくたにすぎないわたし」と呼びます。

 神は45人でも許すと言います。するとアブラハムはさらに40人しかいないかもしれませんがどうでしょうと言うのです。神は「その四十人のためにわたしはそれをしない。」と言います。

 まあ50人から45人さらには40人まで値切ったのですから普通神様を相手ならここであきらめるところですが、アブラハムはさらに30人、20人と値切っていきます。さすがにそれ以上値切るにあたって「主よ、どうぞお怒りにならずに」と前振をりします。

 普通の人間なら50人から始まって10人などと言ったら怒りだすところでしょう。しかし、神は「その十人のために私は滅ぼさない」と言うのです。

 ここで話は終わります。ではアブラハムはなぜ5人さらには1人と粘らなかったのでしょう。神とアブラハムの会話は神の赦しが量ではなく質の問題だと言っているのです。もしこの後アブラハムが数を減らしても神は承諾したでしょう。

 聖書の世界では量ではなく質で測られるのです。おじさんも以前説教をしたことっがありますが、「ブドウ園の労働者」の話などその典型です。あの話ではブドウ園の労働者に長く働いた者にも短い者にも同じ給与が支払われます。

 普通であれば長く働いた者には多くの賃金が短い者には少ない賃金が払われます。しかし、神の世界では短いか長いかでなく、また多いか少ないかではなく信仰があること自体が大切なのです。

 アブラハム神との対話はそのことをよく示しています。明日は学校なのでブログはお休みです。金曜日のアメリカの株式市場が大幅高だったので月曜日の日本の相場も大幅高が予想されます。