新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

究極の信仰ーアブラハムとイサク

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日は今講解説教で取り上げられているアブラハムについて書きます。

 アブラハムについては以前書いたことがあります。彼は信仰の父とも言われています。とても信仰深い人だったのですが、ある時神の試練を受けます。

 神はアブラハムに彼の息子イサクを「焼き尽くす捧げ物として捧げなさい」と命じるのです。イサクはアブラハムが高齢になって生まれた大事な息子なのです。

 その息子を何と神は自分への捧げ物として差し出せというのです。アブラハムにとっては大変な問題であったと思います。しかし彼は次の日朝早く息子イサクを連れて神から命じられたモリヤの山へと向かうのです。

 その時のアブラハムの気持ちはどんなものだったのでしょう。少なくとも聖書を読む限りは何の躊躇もなかったようです。山が近づいた時、アブラハムは一緒に来た若者にふもとで待つよう伝えます。

 そして、アブラハムは息子と二人で山に登っていくのです。祭壇に犠牲の羊を備えることはイサクも知っていました。そして犠牲の羊をもやすことも知っていたのです。

 そのための燃料になるマキもイサクは背負っていました。しかし、肝心の犠牲として捧げる羊がいないのです。イサクは不安になります。そして「火と薪はここにありますが、焼き尽くし捧げ物にする子羊はどこにいるのですか」と父に尋ねます。

 あるいはこの時自分が羊の代わりに焼き尽くす捧げ物になるのではと予感したかもしれません。父アブラハムの答えは「私の子よ、焼き尽くす捧げ物の子羊はきっと神が備えてくださる。」と言うのです。

 ところがまだ神の備えた子羊は出てきません。普通であればアブラハムは神に対して不満を述べるところでしょう。神が約束の子羊を備えてくださらないなら自分は帰ると言ったかもしれません。

 しかし、アブラハムは何と「祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って、祭壇の薪の上に載せた」のです。それだけでなく、「刃物を取り、息子を屠ろうとした」のです。

 ここで注意したいのはアブラハムの行動でなく息子イサクのことです。イサクは父が自分を殺そうとしているのに文句を言ったり反抗したりしません。

 イサクは父アブラハムを絶対的に信頼しているのです。その信頼がなければ、このような態度をとるはずはありません。

 最後の瞬間に神は「その子に手を下すな。何もしてはならない」と言うのです。神はぎりぎりのところまでアブラハムの信仰を確かめたのです。

 この父と息子の信頼関係また父アブラハムの神への信頼関係というものは、究極のものがあったと思います。おじさんにも上の子供と年の離れた息子がいます。(長女と9歳離れています。)

 アブラハムも年を取ってできた息子だからよほど可愛かったと思います。それゆえ神の言葉を聞いた時苦悩もひとしをだったと思うのですが、神が約束して与えた子供だからこそ、神を信頼してこのような行動に出たと思います。

 おじさんはとてもアブラハムのようなことはできませんが。明日は学校なのでブログはお休みです。