全ての始まりー世界の創生
今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日から教会の新年度が始まります。新年度最初の礼拝です。と言っても特別なことはありません。
ところで、去年長老(役員)の方が一人亡くなり、一人は欠員で、もう一人の方は病気で結局6人の長老のうち3人までが欠員と言うことになりました。
3月の教会総会で長老が3人選ばれました。これまでは選ばれても辞退する人が続出していたのですが、今回は何とか選ばれたみなさんが引き受けてくれました。
創世記は聖書の一番最初に出てくる話です。聖書の書き出しは「初めに、神は天地を創造された。」で始まります。つまり、この世を創生したのは神と言うことです。
もちろん現代の物理学や天文学では違った考え方をします。しかし、聖書の世界は古代の人間がこの世はどのようにしてできたのかという疑問に答えた時出た答えなのです。
もし、神が天地を創造しなければ、あるいは神が天地を創造する前の世界はどのようなものだったのでしょう。聖書は神が天地を創造する前「地は混とんであって、闇が深淵の面に」あったとあります。
現代の世界のある地域はまさにこの状態です。社会は混とんとし闇に覆われています。しかし、神はそんな闇に覆われ混とんとした世界に「光あれ」と言われるのです。
これはどんなに絶望的な状況にあっても、神は必ず光と希望をもたらすことを象徴的に表していると思います。その後神は次々に世界を作っていきます。
さて、6日間の天地創造の計画の最後に人間が登場します。
人間については「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。
それだけでなく「神は彼らを祝福」するのです。すべての人間は人間であるというだけで神様から祝福されているのです。つまり、だめな人間はもともといないのです。
ただ東洋の自然観と聖書の自然観の違いは東洋では自然の中に人間がいるという考えです。つまり自然は人間より上位の概念になります。
それに対して聖書の自然観は人間に対して「産めよ、増えよ地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ。」と自然の上位に人間を置くのです。
動物だけでなく「見よ。全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」と言うのです。
すべての植物も動物も魚も皆人間のために存在すると創世記は述べています。このあたりは日本の自然観とずいぶん違っています。
余り日本では取り上げられませんが、西洋と東洋(日本)との自然観の違いを理解しておくことはとても大切だと思います。
明日はのんびり過ごします。