考古学の講演会に行ってきました。
今日は案内のあった考古学講演会に行ってきました。この案内状は以前出た講演会の主催団体からのものです。
主催団体はおじさんの住む町の遺跡保存を市に訴えているのです。さて、今日は前述した遺跡に関するものです。その遺跡は弥生時代中期のもので、近隣の遺跡とともに小さな国を形成していたという内容でした。
講演者によれば、魏志倭人伝の旧百余国が今三十国になっているのは国の数が三分の一になったわけではないと言うのです。
三十国の前に「使訳通ずる所」とあるように、魏の国と外交関係のある国が三十国という意味だと言うのです。なかなか面白い考えだと思います。
この時代の国はその後の国というより郡に近い物だと講演者は言うのです。国は後に県(あがた)と呼ばれるようになり、最後は郡(こおり)となって現在地名に残っていると言うのです。
古代においても郡の数は相当なものですから、弥生時代の国は最低でも200はあったと話していました。その国には国邑(こくゆう)呼ばれる中心地があり、また大きな集落が邑落(ゆうらく)として存在したようです。
つまり、弥生時代の国は国邑を中心にいくつかの大きな集落(邑落)で構成されていたと言うのです。なかなか面白い考え方だと思いました。
今回問題となっている遺跡は国邑と見られています。地域最大の方形周溝墓(ほうけいしゅうけいぼ)があるそうです。方形周形墓というのは、まわりを四角に掘った溝に囲まれたお墓のことです。
そこには何と5歳くらいの幼児が葬られていたのです。遺骸には当時貴重だった朱がかけられていたそうです。またすぐそばの遺跡からは大型の銅矛が出てそれは重要文化財に指定されたようです。
銅矛の出土は珍しくないのですが、これは大型の建物の中に埋められていて、何回か取り出されたようです。使用が終わるとまた埋めたようです。
銅矛が繰り返し埋め戻された使われた例はこの遺跡が初めようです。そんな重要な遺跡なのですが、もともと国有地だったものを市が買い取って遺跡公園にする予定だったのですが、うまくいかず民間企業に売られてしまいました。
それを買い戻して遺跡公園にしようというのがこの団体の目的なのです。2回ほど講演を聞きに行きましたがなかなかレベルの高いものでした。
今回は繁華街のビルでありましたが、250人近い参加者です。それほどの数ではないと思われるかもしれませんが、これで会議室は満杯なのです。ただ来ていたのは平均年齢60才以上の高齢者ばかりです。
もう少し若い方が来たらよいのにと思いました。講師の方は国立大学の名誉教授です。考古学では権威のある奈良国立文化財研究所にもおられたようです。
そのレベルの講演会だと普通受講料2000円はするのですが、無料です。この団体の意気に感じて手弁当で講師の方はやられているのだと思いました。前回は東大の教授が講演に来ていましたが、これも無料です。
充実した一日を過ごすことができました9月には近くの遺跡に関するシンポジュームがあるので聞きに行きます。明日は日曜日なので教会です。司式の当番がまわってきました。