戦争と敗戦後の思い出
今日は終戦記念日です。そういえば昨日「日本の一番長い日」がテレビであっていました。この本には思い出があります。この本をおじさんがいた大学の先生が中国語に翻訳されました。
その際、当時の軍隊用語などが分からないので聞かれたことがあります。たとえば、近衛師団とか隊付将校とかです。それで、中国語訳された本ができた時あとがきでおじさんの協力を得た旨書いてありました。
おじさんは敗戦の3年後に生まれました。父親はもちろん戦争に行きました。工兵だったようで、戦争後もって帰った飯盒に工と言う文字の後におじさんの姓が書いてありました。
階級は兵長だったそうです。下士官の最下級と言ったところです。叔父さんの中には戦死した人もいます。サイパン島で亡くなったそうです。遺骨として帰って来た時お骨の入った箱には石が入っていたと祖母から聞きました。
もう一人の叔父さんは結構早くから戦争に行ったようで准尉で終戦を迎えたようです。それも衛生兵だったようです。兵隊でも優秀な人間でなければ衛生兵にはならなかったようです。無能な人間を衛生兵にしたら、病気やけがの時困るのは兵隊自身だからです。
叔父さんが准尉でしたと答えると、本来階級が上のはずの担任がしきりと感心していました。おじさんも知っていますが准尉は兵隊の神様とも言われるたたき上げのベテランなのです。
おじさんがいた時も突然空襲警報のサイレンが鳴ったことがあります。この日は日本軍の空襲を記念する日だったようです。また、モノレールの駅には巨大な防空施設がありました。
戦争が終わって60年以上たっているのにまだ中国では日中戦争の名残がありました。敗戦後おじさんの町には占領軍が来ました。おじさんの大学は元々旧日本軍の駐屯地の後でした。
そのためアメリカ軍がそこを占領したようです。おじさんが大学に行った昭和41年にもその名残がありました。ある建物の一部には英語の表示がありました。またおじさんが大学生の頃には大学のすぐ近くに米軍の施設がありました。
米軍施設の撤去を求めるデモをした時、突然ゲートがあって星条旗が掲げられているのを見た時はびっくりしました。その施設も今は返還されて公園になっています。
学校では担任を始め、戦争から帰ったばかりの先生ばかりでした。時々戦争で死にそうになった話をしてくれたり、戦後炭焼きをして暮らしていた話をしたりしてくれて面白かったです。
戦後71年無事に過ごせて良かったです。明日はのんびり過ごします。