新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

牧師休暇です。-会計長老の説教でした。

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。先週はシルクロードツアーで教会をお休みしました。おじさんの教会では牧師に1週間の夏期休暇が与えられます。

 初代の牧師は開拓伝道と言って何もないところから教会作りをしたのでとても休暇を取る余裕はありませんでした。2代目の牧師を招聘する条件として牧師休暇を定めました。

 2代目の牧師の場合、夏期休暇と別にハンセン病療養所への伝道もありました。どちらも牧師不在なので長老が代理で説教しました。

 3代目の牧師招へいの時も夏期休暇が招へい条件でした。今その夏期休暇で牧師は旅行中です。今日は会計長老が説教をしました。

 おじさんの教会ではこの会計長老とおじさんが交代で代理説教をしています。牧師と違って専門の神学教育を受けているわけではないので聖書理解に問題があってはといつも心配しています。

 おじさんの場合、取りあえず説教の内容について牧師からクレームが来たことはありません。ある方が長老の時代、その方は某医科大の教授でしたが、牧師以外の人が説教と言う言葉を使うのはおかしいと発言しました。

 その方は牧師以外の礼拝での話は説教ではなく証(あかし)であると言うのです。言われてみれば、牧師と違って専門の神学教育を受けているわけではないので、内容について説教のレベルではないと言われても仕方ありません。

 これは2代目の牧師の時の話です。2代目の牧師は牧師退職後某キリスト教系大学でキリスト教学の非常勤講師をするほどの学究派でした。

 その牧師はいや、うちの長老(おじさんともう一人の会計長老)の礼拝での話は自分が後で聞いても十分説教に値するものだと言われました。

 おじさんの場合、夏の説教をすることが決まった段階で何を話すか考え始めるのです。最低でも3月は準備しないと説教などできません。授業の準備は1日でできますが、魂を癒しと救いを求めて礼拝に参加している人へのメッツセージはそれほど真剣なものなのです。

 去年はおじさんが説教を担当しました。ツマクマのことを話ました。それで長女夫婦と次女夫婦それに孫も聞きに来てくれました。自分のために追悼説教をしてもらってツマクマも幸せです。

 ツマクマへの最後の贈りものとして追悼説教をしました。来年は別の長老にお願いする予定ですが、無理ならおじさんが担当することになります。去年同様来年も説教というより証に近い物になりそうです。

 来年は洗礼を受けて50年になります。そのことを話そうと思っています。明日は洗濯や庭の手入れなど家事にいそしみます。