「葦の海の奇跡」から学ぶ
今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。以前から書いているように礼拝では連続して出エジプト記が取り上げられています。
先述した「落ち着いて」は本来「立ち上がりなさい」という意味の言葉なのだそうです。簡単に言えばモーセは騒ぐな落ち着いて神の力を待てというのです。
主はモーセに向かって「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」と命じるのです。目の前は海です。船もないのにどうして向こうへ行くことができるのか、そんな思いがモーセに一瞬よぎったと思います。
主の命令はおよそ人間の思いでは考えつかないものでした。何と「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ海を二つに分けなさい。」と言うものです。人間の想像力ではおよそ海が二つに割れるなど信じられません。
そんな信じられないことを神は命じるのです。二つに割れた海を渡る奇跡より、神が天から火を降らせてエジプト軍を全滅させた方がはるかに望ましいことです。
しかし、主はイスラエルの民に決断を求めます。自分を信じて自分の足で先へ進むか、このまま主を信じず全滅するかです。主の示された道は決してたやすいものではありませんでした。
信仰なしではできないことです。聖書にはこう書かれています。「「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」とあります。
水の壁がいつ崩れるのか不安の中で一筋の道を進んだと思います。主の力が少しでも弱まれば水の壁はあっという間に崩れて皆おぼれ死んでしまうのです。
しかし、主は最後までイスラエルの人々を守り、皆わたり終わった後、海に入ったエジプト軍は崩れた水の壁のおぼれて全滅します。
この奇跡については、このあたりは葦の生い茂る浅い海で風によって水が一方向に吹き寄せられ、その時間だけ渡ることができたという説が有力です。実際聖書にも「主は、夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された」とあります。
しかし、イスラエルの人々が渡る時だけ風が吹き皆が渡り終わった頃、都合よく風がやむなどということが起こるでしょうか。主の奇跡は一見自然現象のように思えながら、その時を支配されるのです。
以前書いたツマクマの場合もそうでした。それぞれの出来事が特別なことでないのに、ある瞬間ある時間に組み合わされて奇跡のようなことが起こるのです。
主治医はツマクマが亡くなった後その病院を去りました。訪問看護師はツマクマを看護しているとき、独立しました。もし去年でなく今年ツマクマが緩和ケアーにかかっていたら、主治医は代わっており、訪問看護師も代わっていたでしょう。
主の奇跡はもっともふさわしい時にもっともふさわしいことをされるのだと思います。準備されているのはごく普通の現象あるいは事実です。しかし、その準備されたものをつかさどる時を主は準備するのです。
多分この海が割れる出来事はこれまで何度も起こったことでしょう。しかし、主の力とはこの自然現象を最も必要な時に用いることだと思います。その現象を単なる偶然とみるか、主の働きとみるかが信仰の分かれ道だと思います。
今風邪気味なので明日は家で過ごします。明日までフリータイムで火曜日・水曜日・木曜日は仕事です。