新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

10月31日は何の日ーツマクマの余命宣告

 2年前の今日主治医からツマクマの余命宣告をされました。4年前の2月おじさんの家の近くの大学病院で肺がんの4期で手術はできませんと宣告されました。
 その時ツマクマは余りピントこなかったようです。というのは自覚症状がほとんどなかったからです。せいぜいセキが時々出るくらいでした。
 と言ってもある時期は収まっていました。その後セカンドオピニオンを子供達から勧められて別の市立病院に転院しました。
 そこで出会ったのはこれまで何度も書いたとても良い主治医の先生でした。ネットで調べてみると、旧帝大の医学部出身でそこのがん治療専門機関にも所属していました。
 そこで抗がん剤治療を受けました。最初は2種類の抗がん剤でそのうち白金製剤の副作用が強かったように思います。その後もう一つの抗がん剤のみとなり、7月には自宅で通院治療にまでなりました。
 月1回の投薬で良かったので、旅行とかでかけました。年が明けるとその薬が効かなくなりました。次はドセタキセルと言う抗がん剤です。これは良く知られた薬で、副作用として脱毛がありました。
 これも効かなくなって次はタルセバという抗がん剤かジェムザールかということになりました。タルセバにすると味覚が奪われてしまいます。それでジェムザールにしました。この薬は週1回投薬しなければなりません。また投薬直後に高熱がでることがありました。
 それでも何とか東京での息子の結婚式に出、次の月には義妹の家族と軽井沢に行くことができました。しかし、この薬も効かなくなり、最後のタルセバを投与しました。それも効かなくなり、とうとう抗がん剤治療をあきらめることになりました。
 そして、10月下旬から呼吸しやすくするために気管周辺のがんに放射線を当てることになりました。これが一番ツマクマには負担だったようです。そして、10月30日別荘で草刈をしていた時看護師さんから電話がありました。
 明日先生のところに直接行ってほしいというものです。覚悟しました。とうとう来るものが来たという感じです。義姉も肺がんでしたが、病院に行った時余命半年と言われたそうです。
 それでおじさんも最初の大学病院で余命宣告があるかと思ったのですが、その後1年半以上過ごしてこられました。さすがに余命宣告のことを家族に知らせる時は泣いてしまいました。
 放射線治療は人によって副作用が違うそうです。ツマクマの場合は、副作用がひどく、最後は臨死体験までしました。ある時ツマクマのところに行ったら、自分のベットのまわりに知らない人が大勢いて自分を見下ろしているというのです。
 そして青白い顔をした死人のような自分が見下ろしているというのです。この話を聞いた時、以前聞いた臨死体験にそっくりだったのです。これは長くないなと思いました。ところが、その治療を終えて自宅に帰ると急速に副作用がなくなってきました。
 12月にあった義父の13回忌にも出ることができました。11月の16日頃退院したのですが、亡くなったのは次の年の7月のことです。
 おじさんに最初余命宣告をしたのは若い病棟付きのレジデントでした。もちろんその先生も熱心で良い方でした。本来の主治医の先生も後に息子と一緒に会った時余命4月でしょうと言われました。
 人間の余命は運命のような気がします。余命宣告された時よりその後の方が元気になりました。余り食べられはしませんでしたが、亡くなる3週間前に焼肉店に行きました。亡くなる2週間前まで教会の礼拝に出れました。
 いよいよ意識を失ったのは無くなる4日前です。先日前の牧師から、亡くなる4日前最後の意識がある時ツマクマのところに行った話を聞きました。聖書を読んでお祈りしたらツマクマがにっこり笑ったそうです。
 亡くなる直前にあんな良い笑顔を見せた人は見たことがないと言っていました。自分も亡くなる直前にっこり笑いたいものだと話していました。おじさんもその時の写真を次女が撮っていたので見ました。
 意識がなくなる直前何を思ってあんなに笑えたのか不思議です。ただ残された家族にとってあの死の直前の笑顔は心休まるまのでした。
 明日は授業です。